6年間つとめた美学会の会長もようやく昨年10月にお役御免となり、今は気楽な一般会員となったので、最後に学会発表でもしておこうかなと思い、応募してみた。発表の応募が少なく困ってる、ということを聞いたこともあり。
この機会に、今気になっている生成系人工知能の人文学的文化へのインパクトを、根本から哲学的に考察してみたいと思った。別に試すつもりはなかったが、ちょっと挑発的な書き振りで要旨を送ってみた。
発表要旨はもちろん匿名で審査される。美学会は堅苦しい学会なので、審査で不採択になるかもしれないことは覚悟していた。事実、数年前に室井尚さんは委員会で応募を慫慂されたにもかかわらず、審査で落とされた。ぼくは一応採択されたので、まだマシなのかもしれない。
送った要旨は以下のようなものである。すでに採択通知が来たので、別に公開してもいいだろう。して悪い理由はない。うまく行けば、10月15日に慶應大学で話すことになる。学会は14-15日だが14日は「哲学とアートのための12の対話」の日なので、もし14日に配置されると残念ながら行けないことになるが。
機械の身体──美学は人工知能をどう語るのか
生成系人工知能は私たちの知的な活動、とりわけ創造的活動にとって根本的な危機をもたらす可能性があると、警鐘を鳴らす人々がいる。人工知能の開発者自身の中にそうした発言をする人がいるため、私たちのの多くは翻弄される。たしかに人工知能が学術研究や作品制作の現場において日々刻々、身近な問題と感じられていることは否定できない。例えば今審査に委ねられているこの発表要旨自体、ChatGPTによって出力されたものではないと、いったい誰が確信をもって断言できるだろうか?
この発表に美学研究における何らかの意義があるとすれば、それは、テクノロジーが可能にする人工的な情報処理マシンを人類に対する「挑戦」や「危機」とみなすという思考様式の根底に、何世紀にも及ぶ、ある根深い形而上学的信念が存在することを示す、という点にあるだろう。この信念はサイエンス・フィクションの歴史において「フランケンシュタイン・コンプレックス」と呼ばれてきた心的機制と密接に関係している。このことを知るのはきわめて重要であり、美学が人工知能に関して何を語るにせよ、そうした認識を基にすべきであると私は考える。
人工知能の美学を思想史を参照しつつ議論するために、私はまずヒューバート・ドレイファスが1972年に発表した『コンピュータには何ができないか』を批判的に検討する。その時代に想定されていた人工知能は、たしかに現代私たちを取り巻くそれとはかけ離れたものだった。だから彼の議論自体がもはや時代遅れだと考える人がいても無理はない。それに対して、ドレイファスの議論を現代の人工知能に合わせてアップデートすることが本発表の趣旨ではない。むしろ逆であって、人工知能が私たちに突きつけるアクチュアルな問題を、ドレイファスが依拠していたハイデガー、キルケゴールの思想へと遡行し、最終的にはカント『判断力批判』第二部まで到達して、そこにおける目的論的判断力の議論の中で、現代的問題を再文脈化することを試みたい。
私たちが今生きている世界においては、人工知能に「何ができるか」ということだけがもっぱら前景化され、それまで機械には不可能とされていた何らかの知的・創造的作業が今や「できる」ようになった、といったことばかりがニュースになる。こうした状況の根底にも、機械と人間を競合するライバル同士のように考える、ある奇妙な形而上学信念がある。マスメディアが好むこうした大騒ぎは、学術研究や文化政策にも影響を及ぼしているので、無視できない深刻な問題である。本発表の目論見は、こうした考え方自体が大いなる錯覚に基づくものであることを暴露することにある。
これに対して、学会から採択通知と共に以下のようなコメントが来た。必ずしもこれに従って訂正せよというわけではない。これを応募者に見せるのは、参考にして改善せよというような趣旨なのかな。これも筆者は匿名だから、公開して悪い理由はないだろう。
・一見タイムリーな問題ですが、なぜドレイファスなのかを含め、議論の中身が薄い。
・研究の背景や目的は示されているが、ドレイファスが提起した問題をどのように再文脈化するのかが示されていないこと、「機械の身体」という表題と内容との関わりも示されていないことから、まとまりを持った研究発表になるのか懸念される。
・アンディ・クラークなどがすでに指摘していることとの違いは?
・「形而上学信念」は「形而上学的信念」か。最後の「暴露する」は「明らかにする」等の表現が妥当ではないか。
・時宜を得たテーマで興味深い
・個別の論点は示されていますが、全体を一貫する問題設定が不明確に思われます。
・議論としては乱暴かなと感じましたが、社会的な関心の高い現代的な問題について議論する場をつくることも学会の役割だと思ます。
・論考の目的や問いの所在が不明確で、通俗的な機械観・テクノロジー観に異論を唱えようとしているように見受けられ、発表の学術的な意義よくわからない。
・発表の趣旨は理解できるのですが、その内容を考えるならば、30分で収まらないように思います。むしろ単なるマニフェストのようなものに終わってしまう危うさを持っているように感じられます。
・要旨の大部分が、人工知能に対する人間の危機感は過剰反応であるということについて書かれていて、本発表の趣旨である「人工知能が私たちに突きつけるアクチュアルな問題を、ドレイファスが依拠していたハイデガー、キルケゴールの思想へと遡行し、最終的にはカント『判断力批判』第二部まで到達して、そこにおける目的論的判断力の議論の中で、現代的問題を再文脈化すること」についてはあまり説明されていないのでよくわからない。
一読すると、こんな短い要旨に対してよくここまで言えるよな、お前誰や出てこい!(笑)みたいに思うのもあるけれど、別にこれを書いた個々の委員に対して文句が言いたいわけではない。それよりもこれを読みながら、そもそも私たちはこんなことをして、いったい何をしていることになるのだろう? という絶望感を覚えたので、書いているだけである。
文部科学省の大学設置専門委員会の委員というのを6年くらいやった。後半3年は委員長もやった。それで、ある美術大学の設置審査をしている時、主要メンバーの教員が海外のアワードを取って設置後の初年度、2ヶ月間集中で授業をしてあとは不在になる、という変更に対して認可を求める案件があった。
その時、専門委員(多くは有名美大の学長クラスの方々である)の一人が、主要メンバーの教員が初年度から不在というのは、単位の実質化という観点からいかがなものかというような異議を唱えた。ぼくは正直驚いた。なぜかというとその先生は、前に喫煙所で雑談をしていた時、文科省が単位の実質化みたいな形式的なことで縛ってくるけど、そんなので美術教育なんてできないよ、と言っていた本人だからである。
人は誰しも、匿名的な地位から意見が言えるというささやかな権力の場に置かれると、ついつい何かしら瑕疵を見つけて難癖をつけておきたくなるものらしい。あるいはまた、何か指摘しておかないと自分が仕事をした感じもしないという、ちょっと歪んだ責任感にも迫られるのかもしれない。
そしてこうしたチェック機構を「公正で厳正な審査」だとして、必要なものと互いに認めざるを得ないという全体の状況がある。けれどもこんなことをしていては、発表希望者がどんどん少なくなっていくのは当然だよな、とも思う。これは、室井さんのことについて書いたこの前の記事で述べた、「適切性が全てを支配する」という事態にも関係している。審査は「適切性」を基準としてしか行えないからである。
しかし美学会の会長を6年間もやっておいて、今さら文句言うというのもアカンことだなあとも思う。そう思うなら在任時代に組織改革を提案すべきだった。が、こうした問題に共感者がいなかったという状況とか、会長が一人で騒いでも何も変わらんという思いとか、自分の忙しさとか弱さとか、コロナ状況とか、またこれは一学会の問題ではなく日本社会全体の趨勢であるとか、いろんなことで諦めていたことは事実である。
もしも室井尚さんが美学会会長だったら、少しは違っていただろうという思いは拭えない。
まあ言っても仕方ないので、そういう自分の反省も込めて、もし日程が許せば久しぶりに美学会で発表しますので、近づいてきたら詳しいこと告知します。