2022年度リサーチプログラム報告書に寄稿したエッセイ
雑談からすべてが始まり、雑談が消えるとすべてが消える
ロームシアター京都が推進するリサーチプログラムと聞くと、多くの人は劇場や舞台芸術作品という既存の対象についての研究を連想するかもしれない。だが最初の2017年から私がメンターの一人として見守ってきたこのリサーチプログラムに関していえば、その研究対象は狭い意味での劇場や舞台芸術に限られるものではなく、むしろ劇場や舞台芸術についての常識的な理解を拡張し、それによって私たちが生きるこの世界について考察するどれも優れた研究内容であった。それこそが本プログラムの魅力であり価値であって、また舞台芸術の専門家でもない私が6年間も関わってきた理由でもある。
今回も多様なテーマのリサーチから自分自身も学びつつ一年を過ごすことができ、本当に楽しかった。荻島大河は「始原演劇」という壮大な概念を背景に、「犬飼」という文化から人形劇、さらにはVTuberのようなネット文化へと到達しようとしている。彦坂敏昭は子供の劇場体験という言語化しにくい内容を、《おえかきダイス》というユニークな仕掛けを用いて可視化しようと試みる。立花由美子は、美術的パフォーマンスと舞台芸術のそれとを統合的にアーカイブできる仕組みの構築という、ほとんど前人未到の目標に挑戦している。小倉千裕は、前売り券が安いという日本では誰もが当たり前と思っている現象への問いから出発して、チケットの価格をめぐる経済的・歴史的要因を探ろうとしている。
私は1990年から33年間大学で教えてきたが、このリサーチプログラムのミーティングに参加しながら時々、昔の大学の雰囲気を思い出すことがある。1990年代、あるいは遅くとも2010年頃までの大学のゼミの雰囲気である。それは一言でいうと、際限のない「雑談」が許されるような環境である。もちろん現実には時間に制限があるし、また最終的にはプレゼンテーションや報告、論文のような整った形に仕上げないといけないから、本当に雑談に際限がないわけではない。けれども知識の「整った形」に生命が通うためには、それを生み出すまでの大量の雑談的な議論、つまり自由な発想のやり取りの時間が必要なのである。たとえてみれば論文という一つの島は、それを取り巻く百千の雑談の海に囲まれてはじめて存在している──まあそんな感じかな。
悲しいことだが大学は死につつある。建物や設備は立派になり、教育サービスを売るビジネスとしては成り立っているかもしれないが、新しい知識が産まれる場という大学の生命は消えかかっている。この惨状の原因は教職員の質が低下したからでもなければ、もちろん学生の意欲がなくなったからでもない。無駄なもの、役に立たない(と思われる)もの、一言でいえば「雑談的なもの」を切り捨てさせられてきたからである。教養教育を軽んじて専門教育を偏重し、市場原理や成果主義を導入し、数値化される評価ばかりに踊らさせ、ポリコレに隷属し、コンプライアンス違反というクレームに怯える、そんな方向に政治的に誘導されてきたからだ。それに追い打ちをかけるようにコロナ以来の過剰なオンライン化、挙げ句の果ては「稼げる大学」ときた。これでは大学に死ぬなという方が無理である。
大学は死につつあるが、かつて大学が持っていた自由な知的交流を求める人々の気持ちは死んでいない。だからそれを可能にする雰囲気や場は、(全体としては死につつある)大学の中でも一部アジールような形で存続しているし、大学の外でもさまざまな形で実現が試みられている。多くの人々は、この世界には知的な雑談の場がもっと必要であり、テレビやネットだけではそれは不十分だと感じているのは確実なのである。決して研究費が潤沢なわけではないロームシアターのリサーチプログラムに毎年これほど優秀な人たちが応募してくるのも、限られた時間で多様な研究成果が生み出されてきたのも、そうした背景によるものだと私は理解している。