8月5日の土曜日は同志社大学で美学会西部会の研究発表会があったので、行ってみることにした。
ようやくコロナ前のような対面の研究会が復活しつつある。ぼくは昨年の10月をもって6年間務めた美学会会長を退職し、委員会の構成員でもなくなってたんなる一会員となったので、気楽な立場で若い人の研究発表を聞いてみようと出かけてみたのだが、会場に入るなり、懇談会における質疑応答の司会を頼まれてしまった。懇談会の司会というのは、会場から質問が出ない時は何か言って時間を繋がなければならないお役目で、そのためには居眠せずに聴かなきゃいけないので、あんまり気楽でもない。だが実際には、発表内容は眠気を誘うようなものではなかったし、その後の質問も活発に出たので、心配することはなかったのだが。
発表者は今回一人だけで、内容はイギリス人の現代美術作家グレイソン・ペリーについて、特に彼の行う「異性装」の持つ意味に関する考察であった。ペリーは1960年生まれのアーティストで、作品としては陶芸やテキスタイルなどのテクニックを使うことに特徴があり、作品以外では現代アートについての奇矯な発言とか、公的な場における異性装といったパフォーマンス的な側面からも注目されてきた。「異性装」とはこの場合女装のことであるが、ペリーは自分自身がホモセクシュアルでもバイセクシュアルでもなくトランスジェンダーでもないことをみずから公言している。だからいわゆるLGBTQコミュニティ側の人ではない。ただ子供の頃から女装をしていたというから異性装者(トランスベスタイト)とは言えるかもしれない。だが、ぼくが個人的に知っている異性装者とはかなり違っている。
ぼくが知っているのは近所に住む日本人で、中年男性であるが時々女子高生のような格好をして街を歩いている。大柄な男性だしもちろん誰も彼を本物の少女と見間違うことはないが、ちゃんと細かなところまで作り込んだ服装をしているので、つい見てしまうが、同時にジロジロ見るのはどうかとも思ったりする。軽い挨拶くらいしか言葉を交わしたことはないが、それは少女になっていない時で、その場合にはまったく普通の中年男性と思える。人から少女として見られないことは本人も分かっていると思うが、ではなぜそういう格好をするかというと、他人がではなく自分が見るため、いや「見る」というよりも、自分がそういう姿でこの世界に存在していることが、彼が生きるのに必要だからだろうと想像する。
それに対してグレイソン・ペリーの少女装には、そういう切実さがまったく感じられない。余裕たっぷりである意味「ふざけている」というか、彼の異性装は自分のためというより、それがもたらす効果に対して、あまりにも意識的であると感じる。大柄な初老の男が頬紅を塗ってファンシーな花柄のワンピースを着ることは、『空飛ぶモンティ・パイソン』的なナンセンスを好むイギリス人にはある意味受け入れやすいし、そうした状況を知りつつ、現代社会においてLGBTQ(+何とかかんとか)が、政治的に利用されて物議を醸している状況と、自分なりの仕方で戯れている、というような印象を受ける。
さて研究発表は面白く聴いたのだが、アーティストのこうした振る舞いが、現代美術と工芸とのヒエラルキーとか、そこに重なっている性差のイデオロギーとか、その他既存の近代的文化秩序に対する撹乱的な効果を持つとか持たないとかいう議論に関しては、ぼくはあまり共感できなかった。グレイソン・ペリーはたぶんそんなことはまったく考えておらず、そこまで考えていないことがむしろ彼の強さなのではないかと思ったからである。彼の異性装は、LGBTQ(+何とかかんとか)が政治的に力を持っている現在の世界に対する、かなりの揶揄を含んだ反応であるように感じる。
かつては、サブカルチャーが自己主張をすること自体が、支配的な文化秩序に対する撹乱的な意味を持ち、政治的抵抗となりうる場合もあった。ぼくの世代以前の多くのリベラルな人々には、そうした経験が強く刻印されているために、現代の「逸脱的」文化について考える時に、つい勘違いしてしまう。年長者だけではなく、現代の若い世代の研究者たちも、マジメに勉強しているために古い時代の価値観につい影響を受けてしまい、マジメに「研究」的態度を取ろうとすると、たとえば異性装のようなプラクティスそれ自体に、何か支配的文化秩序を撹乱させる潜在力を読み取るべきかのように誤解してしまうのかもしれない。だが、そうではないのである。
サブカルチャー一般がグローバルな文化産業に取り込まれて商品化されているのと同じ程度に、権力はLGBTQのような、かつてはそれ自体が逸脱的であったグループの社会的位置を利用して、支配を拡大しようとしている。それが現在の状況である。アイデンティティは政治利用されている。「アイデンティティ」は、それを認められてこなかった人々にとっては、自らの存在価値を回復する重要なきっかけだが、同時に、弱者であることが支配権力に利用されるという、両刃の剣である。人権は尊重されねばならないが、人権尊重という名の下に、選挙における黒人票を獲得するために黒人の権利が叫ばれ、女性票を獲得するために女性の社会進出が謳われてきたという側面も、確実にあるのであり、性的マイノリティの政治化もその延長線上にある。
こうした現代的な文化の権力化が用いる基本的な戦略の強みは、マイノリティの人々は(自分たちが主張してきた)法的保護や補助金が与えられるためにそのことに反対しにくく、マイノリティ以外の人がそれを批判しようとすると「お前は弱者の権利を尊重しないのか!」と、(マイノリティではなく)権力者たちからワルモノ扱いされるという点である。そうやって支配される者同士の分断が促進され、文化の批判的なパワーは削がれてゆく。あんまりよくは知らないのだがグレイソン・ペリーの「異性装」はそうした状況への批評的レスポンスではないかと想像する(必ずしもうまく行っているとは思わないが)。いずれにせよ、現代文化が置かれているこの状況を正確に記述し分析できる言葉を開発してゆくことが、必要なのではないだろうか。