新型コロナ状況下で学校や職場におけるオンラインの利用が広く普及し、その利便性やコスト節約効果が広く認識されるようになった。大学においても、zoomなどのオンライン会議サービスを利用した授業が、対面での授業が可能になった後も引き続き行われていることが珍しくない。
学生や教員にとっては、わざわざ大学の講義室に出向かなくてもいい。リアルタイムではなくオンデマンドの配信の場合には、好きな時に録画・視聴できる。学校経営側にとっては、教室などを準備しなくていいし、大人数の授業も一人の教員に担当させられるから人件費も節約でき、録画の配信など学生へのサービスも向上していると説明することができる。
けれども利便性やサービスの向上といった表面的な理由だけから、オンライン講義をはじめとする教育のDX化が無軌道に推進されることによって、それは教育という営みの本質的な意味を、深部から掘り崩しつつあるのだ。
学校教育とは知識や技能を伝達するサービスではない。知識や技能が実現されている特定の人格や身体──つまり教師──に出会う機会を提供することである。教師はかならずしもその知識や技能において中立的であるわけでも、優れているわけでもない。だが、それらが生きた人間の中で動いているのを目撃することが、反面教師というような意味も含めて、学生にとって重要なのである。
つまり教育とは知識コンテンツではないということである。コンテンツ(内容)ではなくてむしろコンテキスト(文脈)なのである。しかしコンテキストの次元は暗黙であり、明示的に言語化できない。直感することはできるのだが、この直感が塞がれている人にとっては、教育とは知識コンテンツの伝達サービスであるかのように見える。
DX化とは、こうした文脈を排除することを意味する。もちろん既存の文脈の中には無駄あるいは有害なものもあるので、それを排除することは教育の質を高めることもあるだろう。だが大学のDX化が何が何でも進歩であり向上であるかのように推進するのは、そうしたサービスを提供するIT企業を儲けさせるだけの愚策である。
オンライン授業とは、教育の本質を成す生きた文脈を削ぎ落として、それを知識コンテンツとしてパッケージ化することを意味する。このことで何を失っているのかが感じられないのは愚かであるが、恐ろしいのはこの愚かさが教師自身をも侵食しつつあることである。オンデマンド形式の講義を担当するある講師は、一度も大学を訪れることなく、録画した講義全編を年度の初めに「納品」したと、ある大学関係者から聞いた。
はたしてこの人は「教師」なのだろうか? いったいいかなる意味において?
施設が整備されサービスがいくら向上しても、そこにはもはや大学も教師も学生も存在せず、ただ知識商品の提供者と消費者がいるだけ。やみくもなDX化が行き着く先はそうした場所であり、それは表面上学校の形はしていても、もはやそこには教育は存在していない。