同志社大学文学部の講義「資本主義の美学」2022年度の初日であった。登録している受講者は29名、文学部が主だが他学部からも若干名。その他、大学院、他大学、アーティストなどモグリ数名。昨年と異なり、今年は比較的小さい教室で、雰囲気は良くなったと感じる。後ろの窓から大文字山が見える。
教卓には、引き続き感染症対策を徹底せよというシートがあり、学生にはマスク着用をすすめるよう書いてあるが、これは「屋内でも会話をほとんど行わない場合は着用の必要はない」という現在のガイドラインに矛盾する。いったいどうせえと言うのか、と思ったが受講者は終始100%マスク着用だったので何も迷う必要はなかった。
教員はマスクなしで講義してよくなったので、半分だけ正常化したという感じだ。とにかくマスクのことはしばし、少なくとも講義中は忘れていたい。学生もしていないものと想像しつつしゃべる(無理だが)。
さて今日は自己紹介と講義全体の導入を少ししただけだが、その中で、なぜ美学の先生が資本主義に言及するのかということについて話した。美学、哲学、芸術の勉強に関心を持つ人は、経済や政治のことはあんまり考えたくない、というタイプの人が多い。学生も先生も、ぼくの周りの人たちもそうだし、ぼく自身もそうだった。
2000年くらいまでは、経済や政治のことは新聞や雑誌、テレビの情報くらいで十分だと思っていた。またネットのなかった時代にはそうしたマスメディアの情報レベルを越えて自分で調べるのは、けっこう手間のかかる大変なことでもあった。
新聞もテレビも私企業だから、利害に影響されて伝える情報に歪みはあるとは思っていたが、たくさんの人が見ているのだから、そんなにひどい情報操作はできないであろう、白のものを黒とはまさか言わないだろう、くらいに考えていた。
しかし2001年の9.11、その後イラク戦争へと傾れ込む時期の「テロとの戦い」報道を目にして、これは何かが根本的におかしいのではないかと感じ始めた。それでもマスメディアに対する信頼をまったく失ったわけではなかったが、それから10年後、2011年の3.11以降、マスメディアは白のものを黒と言うのだと実感した。地上波デジタルへの切り替えとともに、テレビを観るのを止めた。
それで、信頼できると思える人や情報を自分で探すようにしてきた。もちろん社会科学の研究者ではないので、経済や政治に関するぼくの知識は不完全であり素人目線である。けれども素人の目線は実はとても大事なのである。社会が高度に複雑化してゆくにつれて、専門家やインサイダーには見えないことが増えてゆくからだ。
知識の不足が蒙昧を結果するというのは17-18世紀の古典的な啓蒙主義の世界である。その場合には教育、知識の普及が人間を解放する。大学もそれをモデルに発展してきた。けれどもマスメディアとネットの発達した20世紀後半以降においては、むしろ知識の過剰が蒙昧状態を作り出す。けれどもそこから抜け出すための新しい啓蒙のモデルはまだ生まれていない。
今年度は普通に対面だけで講義できるのでそれだけでもいいのだが、昨年のようにネット配信も楽しみにしてくれる人がいるので、水曜日の内容を思い浮かべながら、週末に時間を作ってまた動画を作ろうと思う(とここで宣言して自分を縛らないと、面倒くさくなってサボってしまうから)。このブログ記事はそのために講義当日書き留めるメモみたいなものである。