2022.09.22付のブログで書いたように、先日久しぶりに学会で個人研究発表をした。日本記号学会ではこれまで、編集委員長、会長をそれぞれ二期、理事も30年近く務めてきた。その間に自分が実行委員長となって大会を企画したことも三回(甲南大学、IAMAS、京都大学と新しい大学に着任する度にそこで大会を企画した)あるし、講演やシンポジウムも数えきれないくらい出演してきた。そういう「重鎮」だから研究発表は楽しいなんて気楽に言える、と言われれば確かにその通りだろう(これから学会デビューする院生にとっては、自分が研究者のコミュニティに入れてもらえるかどうかを決めるイニシエーションみたいなもんだから、楽しいどころか前日は心配で寝られなかもしれないしね。)
けれども、それだけではないのである。大学も退職して一区切りついたので、もう一度若い人たちと同じ資格で個人研究発表に臨み、そのためにこれまでの自分の活動歴は全部捨てるという、ある種の知的な「断捨離」みたいなことが楽しくて気持ちがいいのだと思う。
人文系の学会事情に詳しくない人のために言っておくと、個人研究発表の審査においては、重鎮だからといって特別扱いはなく同じように匿名で審査される。だから発表要旨の査読で不採択になる可能性だってある(実際には内容からして誰なのか分かったりすることもあるけどね)。ちなみに、昔の学会ではエライ先生は当然のように無審査で特別扱い、ご高説を拝聴する、という感じだった。そういう権威主義的体制はよくないというので、1990年代くらいに、個人研究発表は誰でも平等に扱うようになった学会が多いのではないだろうか。
これには弊害もあるけど、年長の研究者が第二の人生をスタートするキッカケを与えてくれる点では悪くないのではないか。サラリーマンは定年退職して会社に行かなくなると文字通り第二の人生を始めるしかないけれど、人文系研究者の場合大学を辞めてもそれほど自分の活動は変わらないので、退職後も自分の過去の業績や関心に捕われがちだからだ。
弊害というのは何か。それは年長者の研究発表を若い人たちと同じ基準で審査すると、学会で「規格外」の話を聴けなくなる、という点だ。規格外に優れた内容はもちろん、論理はメチャクチャなんだけどこの人にしか語れないような話とか、聴いていてハラハラ心配になるような話とか。有名大学の教授だったはずなのに何これ? と恥ずかしくなるような壮大な反面教師も、若い研究者がそれを聴いて自信を持てるなら、意味のある存在だと思う。
10月の大会で会長を辞めたら次は美学会に挑戦してみようかな。これは発表要旨審査で落とされる可能性が高いけど。