大学は、誰のものか?
大袈裟なテーマではあるけど、ぼくも自分の職業生活を30年以上大学の教員として過ごしてきたわけで、ここで自分なりの見解を述べても別にバチは当たらないと思う。
大学とは、Studentのものである。Studentというのは教員に対する学生という意味ではなく、誰であれStudyする者、「探求者」という意味である。だからいわゆる学生も教員も同じように、知的探求者という意味ではStudentなのである。大学とは、そうした探求者の共同体である。反対に、学生でも教員でも探求しない人、もはや探求することを止めた人、探求とは別の関心で動いている人は、Studentではない。
そういう共同体が社会に中に存在することが、社会全体にとっても非常に利益のあることなのである。その外とは違う論理で動く知的共同体があり、それが大学の外の社会からは隔絶されつつ行き来し合う、と言うのが健全な国家のあり方だと思う。社会一般の論理とは異なる論理が支配するのを許すのが、大学の自由ということである。大学はアジール(避難所)としても機能したが、そうした場所があるのが、社会一般の大きな活力となってきたのである。
けれども今の大学はハッキリ言って、刑務所あるいは収容所のような施設になっている。あからさまな囚人服や監禁室のようなものがないだけで、学生にも教員にも、思考の自由を奪う規律と訓練が徹底されている。大学と、大学の外の社会との境界はもはや存在しない。大学はもはやアジール、駆け込み寺ではなく、経済機構の一部に組み込まれてしまった。
大学をstudent、私たち探求者のために取り戻さなければ、大学はもはや大学ではなくなる。名前や建物だけ立派で、命のないゾンビになってしまう。つくづくそう思うのだが、現実の大学を見ると、暗澹たる気持ちになる。こんな場所で知的な探求なんて可能なのだろうか? そもそも知的探求とは何かを、話題にできるような環境なのだろうか? 学生からも教員からも、いかにして自由を奪うかという「改革」しかされてこなかったのではないか。
そして、ぼくのような世代の教員がこんなことを言うと、昔の世代が古き良き時代のノスタルジーを語っている、みたいに言われる。今はそんな幸せな時代じゃないんだよ、おじいちゃん、みたいに。でも実はこういう言い方自体が、暴力そのものなのである。何でも時代や世代のせいにするのは、国を破壊するプロパガンダである。大学がそもそもどういう組織であるべきかについて、時代なんてまったく関係ない。人類が文明を持って以来、知的探究を護るという組織は何千年もの間、社会の中で大切な役割を占めてきた。
とにかく、明日から同志社大学の講義が始まるなー。好きなことを言える雰囲気であればいいのだけど。いつ辞めせられるのか分からないけど、自決覚悟で臨むしかないな。