政情不安定な時代には、意見の対立する人々どうしが「お前たちはウソをついている! 」と互いに非難し合い、攻撃し合う。今私たちが生きているのは、まさにそういう時代である。その中で人々は、どちらを信じどちらに付くべきかと迷うが、たいていの人にとって判断すべき材料は限られている。それで結果として、より多くの人が支持している立場の方に傾くことになる。自分が少数派として孤立するのは耐えられないからだ。
生物としての人間にとって、それはある意味仕方のないことである。進化の過程で、正しい立場を自分で判断して選ぶより、より多くの仲間が支持する立場に与する方が、生き残るチャンスが多かった。逆に言えば、今私たちが生きているということは、そうした行動を選択したご先祖様たちが、生き残ってこられたからである。私たちが自分の理性で判断するより、世の中の大勢に従うように導かれるのは、進化の必然ということである。
マクロ的には確かにそうかもしれないが、進化というのはそんなに単純なものではない。支配的な多数派の中には常に、真逆の方向性を持つ少数派が生まれる。それは単なる偏差やノイズではなくて、集団の全体的な発展にとって本質的なことかもしれない。多数派と少数派とは、ある種のエコロジカルな関係、闘争であると同時に均衡のような関係を持つだけでなく、少数派の異端的認識が多数派の主流の認識の中に、テレポーテーションのように環流してくる過程があるのではないか。
哲学者は常に少数派だが、哲学の存在理由はそうしたところにあるのかもしれない。もっとも哲学は存在理由があるから存在しているわけではないが。
先日の日本記号学会の研究発表を書きながら、「ウソ」とは何だろう?と考えていた。ここで言う「ウソ」とは、人が自己利益のために知りながら事実と反対を言うということではなくて、むしろ人がそれを心の底から信じ、本人にはそうとしか思えないような虚偽の認識のことである。それでスピノザを参照した。スピノザは、虚偽とは自己認識の欠陥だと考える。つまり、人が虚偽の認識を持つのは、単に事実を知らないということだけではなく、自分がなぜそうした虚偽の認識を持つに至ったのかを知らないからなのである。
陰謀論者たちの考えるように、もしもこの世界を上位から操っている支配者がいるとすれば、彼はこうした人間的認識のメカニズム(とその弱点)を知り尽くしているのではいかと思う。そうでなければ支配は完遂しない。つまり、支配者は何よりも哲学に通暁しているはずなのである。哲学というのはたんに少数派の、牧歌的で無害な知識や教養、といったものではない。ぼくには哲学が、心底恐ろしい。それは安心安全な知識ではなく、そこには途方もない力が隠れている。核兵器のように、私たちを壊滅させるポテンシャルを持っているからである。