この前の投稿で、今週から始まる同志社大学の講義でも去年のようにマスクして喋らなければならないのか、イヤだなーという意味の投稿をしたら、同志社大学教授の佐藤守弘先生から早速リプライが来て、同大学ではこの6月に感染症対策に対するガイドラインが改定され、教員はマスクしないで講義することができるようになりました、ということを知った。
まあ、よかった。けれども素直に喜べないのは、たとえガイドラインが改定されても、多くの人はマスクし続けるのではないか、と思うから。家近くの高校は、登下校でのマスク着用指導はもうなくなったと聞くが、依然としてほとんどの生徒も教員もマスクして登下校している。先月東京で出席した政府関係の会議では、事務局が配布した会議の実施要項には会議におけるマスク着用項目はなくなっているのに、ぼく以外の全員マスクしていた。
こういう状況を指して、だから日本人はダメだとか同調圧力に弱いとか、騒ぐ人たちもいる。その気持ちは分からんでもないし否定はしないけど、そういう批判ははたして、この国のリアルな状況に触れているのか。マスクに感染予防効果がないことは数値的に明白だが、それを示しても多くの人にとって何かが変わるのか。感染症に関してどんな立場を取ろうとも、自分と異なる意見の国民を一律に「バカ」と決めつけるのは、実は自分自身も背後からそのように分断を煽られていることを知らない点において、結局同じではないのだろうか。
2年前のコロナ騒動の最初の頃、これは何だか世界史的に大きな出来事が起こりつつあるのではないかとぼくは感じて、恐ろしくなり、行政やテレビや新聞の情報がまったく信じられなくなり、騙されるのは嫌だから免疫学や感染症のことをかなり勉強して、自分自身はPCR検査もワクチン接種も一度も受けなかった。だからといって反コロナ派とか反ワクチン派というわけではまったくない。むしろ、この「派」という考え方がクセモノだと思ってきたのである。
今の状況ではまだ、この話題をネットのこうした場所で書くことすら、大変気を使うことは確かだ。多くの人が、病気や死に対する不安を掻き立てられ、正常な判断ができなくなっている。不安に煽られた人たちが必要としているのは、客観的知識や合理的判断ではなくて、治療や癒しである。けれども不安にとらわれた人たちは自分たちが病的状態にあるとは思っていない。そういう人たちを単にバカと決めつけても、それによって目覚めるなんてことはけっしてない。
啓蒙はもはや不可能になったのだろうか。だとしたら、こんな状況下において大学で講義する意味とはいったい何なのか。これは挑戦だね。楽しみだ。と思うことにしよう。