【Q】「根源的な疑問」というような感じを、常に感じます。一体それがなんなのかも分からずにいるのですが、ともかく常に感じています。それのことは一言では説明できないのですが、周辺的な関連事項を列挙すると以下のようなことになります。
1) それは、感じる人と感じない人がいるらしい。
2) それのことを公の場で話すと「よくそんなに自己開示できるね」というようなことを言われることがある。
3) 室井佑月が以下のコラムで「心のひだ」と呼んでいるものと似ているような気がする。
https://mainichi.jp/articles/20180305/org/00m/070/011000d
4) 自分としてはそれのことは30歳代の後半から意識するようになった。しかし、実際にはもっと早くから感じていたような気もするし、人によってはずっと若い頃から感じる人もいるらしい。
5) それは、「死」とどこかで関係しているような気がする。
6) それは、「哲学」とどこかで関係しているような気がする。または、一部の哲学者の心情と関係しているかもしれない。
7) それは、「映画」とどこかで関係しているような気がする。または、一部の映画制作者の心情と関係しているかもしれない。
8) それは、「犯罪」とどこかで関係しているような気がする。または、一部の犯罪者の心情と関係しているかもしれない。
9) それを合理的に否定することのできる端的な言い方の一つは、「そんなの気のせいだよ!」という言い方だと思う。しかし、実際には今まで一度も誰からもそのように否定されたことはない。
これは、一体なんなのでしょうか?
【A】うーん。
まわりくどい質問ですね。しかもポイントがよく分からない。
リラックスした話し方それ自体は、悪いものではないですよ。気持ちいいといえばいい。強いて言うなら、気持ちよすぎるのがよくない。
たとえばものを書くとき、「◯◯とどこかで関係しているような気がする」という言い方は、それが特に効果を発揮する文脈以外では、注意して避けた方がいいと思います。どんなことだって、死や哲学や映画や犯罪と関係しているといえば関係してるし、そんなことを言い出すとすべてが拡散しすぎて、元の問題が何であったのか、どんどん見えにくくなるからです。
そういうフンワリとした意識の流れを計算可能な思考の俎上に乗せるのが、言葉で表現するということだと、ぼくは考えます。そんなことは暴力的ではないかと言われれば、まったくその通りで、言葉とは意識や感情の自然な流れに暴力を加えることです。とはいえ言語化が暴力であることを知っていれば、それは単に理不尽な暴力とは異なるものになるのです。だから誤解を恐れずハッキリと表現すべきです。そこからすべてが始まるのです。
参照されている室井佑月の文章は、それを「死にたい」と言語化しているから、少しは理解できます。これでもまだ全然不十分ですが、印刷物やネットで世の中に流通している文章の99%は、まあ大体こんなレベルです。見下しているのではなくて、こういう思考ではその後どこにも行けない、つまり袋小路であったりループであったりするしかないということです。
そこからあえて思考を取り出すと、それはあらゆる生の経験には死が伴っているということです。それを言うこと自体は重要です。それは基本的な事実だからです。
生が健全であるためには死の臨在が必要です。逆に、死のカケラもない生、というのは病んでいます。ベタいちめんの生とは、ベタいちめんの死と同じことで、哲学的にはそれは「ニヒリズム」と言います。ニヒリズムとは「世界は無意味だ」という信念のことではなくて、生から死を徹底排除しようとする病的傾向のことです。「安心安全」とか、感染のリスクがある行為は全て禁止する、というのがニヒリズムです。
「心のひだ」というのは、悪くない形象です。ひだ(襞)というのは、表に見えている滑らかな表面と、折り込まれて見えない暗闇から出来ています。それが生のイメージです。暗闇は怪しいからといって伸ばしてしまうと、もはやそこに生はありません。そしてひだはエロティックな形象でもありますが、それは当然で、個体の生は常に生殖によって、個体の死を超えた次元に連続しているからです。
こういうことは、12歳くらいから子供に教えるべきことなのです。昔は国語の教科書に収録された文学テキストの断片によって、学校教育の中にもわずかにその機会がありました。今は国語は論理の組み立てやコミュニケーションが中心になっているために、死を内包した生というイメージの習得は排除されています。安心安全ですね。これがニヒリズムということなのです。
◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 013◉
【Q】昔の小説や映画、あるいは昭和時代のマンガなどにもよく「作中には現在の人権意識からすると不適切な表現がみられますが、作品の歴史的価値を尊重しオリジナルのままで収録します」みたいな但し書きがあります。意味は理解できるのですが、そう言われると余計にその問題の箇所とはどこだろう、という興味が湧いたりします。ふつう差別語などの不適切な表現は、気にする人がいるなら言い換えればいいだけではと単純に思ったりもしますが、芸術作品の場合はそれを変えてはいけないという特別な理由があるのでしょうか? 美学ではどう考えられているのかということが知りたくて質問しました。
【A】「昭和時代」ですか‥‥(笑)。いや、もちろん2つも前の元号なので「時代」扱いされても当然なのですが、自分が生まれ30代までを過ごした時間を何気なく「時代」と言われると、つい感慨にひたってしまいます。いや、当たり前のことなのですけどね。
それはともかく、お尋ねの件。たしかに「不適切な箇所」なんて言われると、え? どこどこ? と探してしまいますよね。当然です。ではそのことは何を意味するか? それは、誰が、どんな理由で特定の表現を「不適切」と決めたのだろう? という興味が湧いてくるからです。逆に言うと、表現それ自体には、「適切」も「不適切」もありません。日常の発話でも芸術創作でも、表現とは身体から自然に出て来るものです。「適切/不適切」というのは言葉や表現を、良い悪いは別として、何らかの政治的な目的のために、操作し支配する時に生じる区別なのです。
たしかに表現に対する考え方は時代とともに変化するし、昔は許されていた言い方も、今は多くの人が聞きたくないというような言葉もあります。それでは、問題の箇所を言い換えればいいだけなのか? それでうまく行く場合もないことはないのですが、単純に言い換えただけではとても不自然になってしまうことが多いのです。言葉は私たちの生きた身体と同じで、どこかの部品が病気になったら健康な部品を移植すればいい、というわけにいきません。可能な場合もありますが、いろんな障害が出ることも少なくありません。
それでもマスコミやお役所などでは、「不適切」とされるたびに無理やり言い換えてゆきます。それによって言葉として不自然になったとしても、際限のないクレームに対処するよりはマシだからです。しかし芸術作品の場合には、細部の不自然さは作品の全体としての生命にかかわるので、そういうわけにいきません。「歴史的価値を尊重し」という言い方は必ずしも正確ではありません。優れた作品は歴史的に価値があるからではなく、歴史を越えた価値があるから変えてはいけないのです。
ただ、この「変えてはいけない」というのを芸術作品だからこそ許される特別な理由であるかのように解釈すると間違います。そのように主張すると、芸術だからといってそんな特権は認められない、と反論する人が必ず出てきます。これは「芸術だから変えてはいけない」というような「特権」ではないのです。護る理由は、無理に変えると作品として死んでしまうからという、それだけのことです。芸術とは幼な児のように弱い存在であり、護らないと死にます。が同時に、幼な児のように強い存在でもあり、死んでも必ずまた新しく生まれて来るのですが。
さて、不適切な箇所を含んだ過去の作品とどう付き合ったらいいのか? 「昔のものだから仕方がない」というのは、あんまりよくない割り切り方です。それは過去を現在より劣った時代と見下しており、過去の作品とまともに向き合っているとは言えません。かといって、むしろ過去の方が正しく、些末な言葉狩りをしている現代が間違っているのだという居直りも、倒錯しており、無理があります。いちばんマシと思える態度は、過去の作品の「不適切」な表現や世界観に、悪いと知りつつ誘惑されてしまうこと、罪悪感を感じながら魅了されるということだと思います。
芸術にとっていちばん重要なのは、表現の自由ではなく、夢見る自由です。ただ大事な点は、表現の自由は政治的に戦い取るべき権利だが、夢見る自由は闘争によって獲得したり法律で保証したりできるものではないということです。夢見る自由が作品の生命であり、それを侵害しないなら表現は変えても構わないのですが、どの表現が作品の生命に関わるか、簡単に分からないこともあります。未知の生き物の身体の、どこを切り取ったら致命傷になるのか分からないようなものです。だから安全のためにそのままにしておく場合が多いのです。
◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 012◉
【Q】先生こんにちは。「シオンの議定書」を始め、世の中にはいろんなことを「陰謀」で説明しようとする人が昔からいるらしく、わたしも正直その影響を受けています。日本の政治でも、グローバル化を政府に提言した竹中平蔵の背後には国際金融資本の支配者たちがいて、その人たちがいいように世界を操ろうとしているとか、今のコロナだって、中国の世界支配の手段だとか、メディアを使ってみんなを怖がらせてワクチンを打たせ大儲けしようと企んでいる人がいると言う人もいます。面白いのでつい読んでしまいますが、もしそれらが本当なら、敵はあまりに強大で私たちには太刀打ちできないと思い、絶望的な気持ちになります。先生は陰謀論というものをどのようにお考えですか?
【A】面白い質問ありがとう。
陰謀論というのは、ひとつの物語です。陰謀は現実に実在するというより、現実を理解するための仕掛けの一種です。陰謀論がなぜ魅力的かというと、それはとても分かりやすく、面白いからです。そしてなぜ分かりやすいかというと、陰謀論はこの世界で起こっていることを、特定の人物や集団の意図や計画として説明するからです。よく出来た陰謀論を聴くと、世界がどうしてこうなっているのか、これで全部分かった! という強い確信が生まれす。そうした確信の背後にあるのは、もし自分が巨大な権力や財力を持っていれば世界を意のままにできる、という万能感です。
歴史を理解するには誰しもある程度、それを特定の個人や集団の意図に還元しています。そうしないと、なかなかうまく知識を整理することができません。歴史理解において、陰謀論はいわば「必要悪」ともいえる認識の仕掛けです。けれども歴史についてまともに考えている人は、歴史が特定の個人や集団の意図や計画に還元するには、あまりに複雑すぎる過程であることも実感しています。個人の思惑には限界があり、また人間の思惑を越えた物理的条件が決定的であり、さらに天変地異などの偶然的要因もあります。だから陰謀論は、面白いがそれ自体も一つの歴史的現象である、という程度に付き合っておくのがいいのではないかと思います。
けれどもこの世界には、必ずしも明確な陰謀意識を持っていなくても、生まれつき大きな権限や財力を持っており、自分がどのような振る舞いをすればその権限や財力を維持したり拡大できるかを知っている人々がいることは確かです。彼らは基本的には無知なので、陰謀という言葉は似合いませんが、それでも集団としては、自分たちの利益を最大化するために、直接的ではないにせよ、他の人々を貧困化したり死に追いやるような決断をします。集団レベルでは、確かに「陰謀」があるような気がします。
「陰謀」という考え方はおそらく、今よりはるかに政治的プレイヤーの数も交わされる情報量も少なかった中世ヨーロッパのような世界で、対立する王侯貴族が敵を陥れるために練った、巧みな策略のようなものがモデルになっていると思います。そうした世界では、陰謀に対して戦うやり方は比較的簡単で、それは謀略家を暗殺すればいいわけです。あるいは民主制国家であれば、陰謀を人々に対して暴露すればいいのです。陰謀とは個人の心に生まれるものなので、簡単に言えばその個人を抹殺すれば済むわけです。問題はそうしたモデルが今の世界を考える時、どれくらい有効かということです。
現代社会の特徴は、たとえ陰謀を暴いても状況はあまり変わらないという点にあります。それが「ポスト真実」という状況ですね。現代の社会において、自分や周囲の人々の利益に誘導する言動や行動をとっている特権的階層の人たちの大半は、おそらく陰謀などという意識は持っていません。ほとんどの人はそうした自覚を持つにはあまりに無知です。自分の属している集団の維持や繁栄のために、何となくそれまでに教えられ、適切と思われる行動をとっているだけなのです。政治的指導者たちの大半もそうです。だから、その人たちの個人的な欠陥をあげつらったり、彼らの「陰謀」を暴露しても、それほど効果はありません。そもそも本人たちがそんなもの知らないのですから。陰謀論はむしろ被抑圧者達がその不満のガス抜きをするためのフィクションのような役割になることもあります。
しかし無自覚とはいえ明らかに特定の自己利益のために動いている集団、そのことによって世界を貧しくしている集団は存在するのですから、陰謀論は全く捨て去るよりも、ある程度距離を保ちつつ、持っていたほうがいいとは思います。所詮は虚構なのですから、多くの人々が聞きたがるような、面白い物語に作り上げていくことによって、世界を今よりは少なくともマシなものに変えていくための、戦略的な手段にすればいいと思います。
◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 011◉
【Q】人間がもはや存在しないだろう遠い未来に、宇宙の星々が激しく輝くという記事を読みました。そういう終末の美しさは何のためにあるのでしょうか。人間のためでしょうか、生物のためでしょうか、それとも美は見られなくても価値はあるのでしょうか。そもそも美は生物による認知がなくても、存在すると言いうるのでしょうか? 感性論や性淘汰の理論からは、「否」ということになるかもしれませんが、しかしそうであっても世界は美しいわけです。それにはどんな意味があるとお考えですか?
【A】この記事のことですね。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/082100484/?rss&utm_source=dlvr.it&utm_medium=facebook
宇宙がだんだん膨張していってエネルギーが拡散し、恒星の最後の姿である白色矮星も冷え切って黒色矮星となり、そのまま宇宙は死ぬのだと思われていたのが、実は量子トンネル効果によっ黒色矮星の中でも核融合がゆっくり進行していて、それが10の1100乗年の後に超新星となって大爆発を起こし、その光が最後の宇宙を満たすというのです。線香花火から激しい閃光がだんだん出なくなって火玉だけになり、これで終わりかなと思っていたら最後に美しい松葉と散り菊になって燃え尽きる、という感じかな。あまりにもスケールの違う喩えですが(笑)。
美はそれを感受する何らかの主体(人間、動物、AI?)がいなくても存在しているのか? これは哲学の最重要問題のひとつです。現代の哲学は専門分化しているので、その「業界」の言葉遣いに慣れない人が哲学の本を読んでもピンと来ないし、哲学研究者本人も自分が何を考えているのか無自覚な場合が多いのですが、結局はこの問題も考えているのです。古典哲学なら、この問題をもっとストレートに表現します。
美が「イデア」であれば、人間の居る居ないに関係なく存在します。イデアは、端的に認識の外にあるからです。プラトン哲学ではイデアは天上界にあるので、この世で何が起ころうとも、美そのものはビクともしません。人間がこの世で何かを見ると、魂がたまたま天上界の美を思い出すことがあり、その時に人は「美しい」と感じるのです。だから、もしも人間が10の1100乗年後の夜空を見上げて超新星の光を見たら「美しい」と感じるかもしれないが、その感覚の根拠になっている美そのものは、この世の出来事に関係なく、時間を超越して存在しています。
しかしイデア論の場合は、美は事物の中にあるわけではないので、たしかに美は見られなくても価値はあり、生物による認知がなくても存在することになりますが、その反面、感じる主体がいないところで何らかの事物が「美しい」という事態もありえないことになります。「何かが美しい」というのは、魂がイデアを想起する経験に基づいているので、もはや誰も観る者はいないであろう宇宙最後の星の大爆発が、それでも「美しい」ということは言えなくなります。
一方近代哲学の主流は認識論なので、美は人間の知覚や認識から生み出される経験です。したがって、認識主体がいなければ美は存在しません。ただ、美は個々の認識主体の中で勝手気ままに生じる経験ではなくて、何らかの普遍的な性質を持っており、哲学的に探究する価値があるとは考えられてきました(そうでないと美学なんて成立しませんからね)。しかしこの普遍性は、人間性、人間精神とか、せいぜい知性一般とか、多少とも主体性に根拠を持つもので、宇宙それ自体が美しいというようなことを主張する根拠にはなりませんでした。
もちろん哲学史は単純ではなく、近代においてもこうした主流派の認識論に反抗する形で、様々な存在論的主張も行われてはきましたが、やはり自然科学が支配的な影響力を持っているので、マイノリティの位置に置かれてきました。現代の私たちの世界観もその影響下にあります。「人間がいなくても宇宙は美しいか?」という質問を、専門的哲学者ではなくそのへんの中学生に聞いても、お勉強のできる子は「人間がいなかったら、美しいも何もないでしょ」と答えます。中には「いや、宇宙そのものが美しいんだよ」と答える子もいるかもしれませんが、そういう子は「ふーん、ロマンチストだね」と言われるでしょう。「ロマンチスト」というのは褒め言葉ではなく、マイノリティという意味です。
さて、ここまでの議論を踏まえた上で、このご質問の中心的な問題を考えようと思います。それは「しかしそうであっても世界は美しい。それにはどんな意味があるか?」という問題です。え、それでは元に戻ってるのでは? と思う人もいるかもしれませんが、実はそうではありません。上で参照してきた哲学の伝統は、学校で教わるような解釈に基づいた西洋哲学です。けれども西洋哲学だけが哲学ではないし、また西洋哲学それ自体も、実は大学の哲学史で習うようなことばかり考えてきたわけではないのです。西洋はよく見ると結構、非西洋的です。ということは西洋から見た非西洋、オリエントも、そんなに単純じゃないということでもあります。
この問題は説明し始めるとキリがないので、ここでは質問に即したポイントだけを指摘します。「宇宙の美は何のためにあるのか?」という問いは、美を感じる存在の有無を問題にしているわけです。しかし美を感じる存在とは何でしょう? 人類でしょうか?(しかし奴隷制の時代に多くの白人は、黒人には美など分からない思っていました。)生物でしょうか? (脳の発達した動物? 脊椎動物? どこに線を引くのか?)サイボーグ? 人工知能は? このように疑い出すとキリがありません。そしてどこに境界線を引こうとも、それは非常に人為的で無理があるという印象を拭えません。
この困難を打開する方法のひとつは、単なる対象としての事物とそこに美を感得する主体という対立を放棄することです。質問者の「しかしそうであっても世界は美しい」という言葉は、そうした可能性を示唆するものだと思います。言ってみれば、宇宙を美しいと感じているのは、宇宙それ自身なのです。そして私たち人間が宇宙を見て美しいと感じるのは、私たちが宇宙の一部だからです。こういう主張をするとすぐ「汎心論」だと言われますが、汎心論というのは、人間の心のモデルを生物ですらない事物に適用してしまうので「石がどうやって世界を感じるというのか?」と疑われ、とてもエキゾチックな異説だとみなされるわけです。
その意味で、汎心論はその主張に反してなおも人間中心主義です。宇宙の美は最終的には宇宙自身のためにあり、それは宇宙自身が「心」を持つからなのですが、この「心」は人間の心理や認識とは似ても似つかないものであり、擬人化では決して理解できない事柄です。このことを、自然科学や現代人の世界観がなるべく偏見なしに理解できるような言い方を探究・開拓してゆくことが、現代哲学の重要な課題ではないかと思っているのです。
◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 010 ◉
◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 009 ◉
【A】白井さんは、ユーミンの大ファンだったのですね。特に荒井由美時代の作品が、とても好きだったようです。そういう人は、他にも知っています。ぼく自身は、ユーミンは優れたミュージシャンだとは思うけど別にファンではないので、そういう人とユーミンの話題を話すときには、ちょっと言葉に気をつかいますね。ファンというのは傷つきやすいからです。
さて白井さんが、どうしてそんなに好きだったユーミンについてひどいことを言ったかというと、それは裏切られたと思ったからです。彼は安倍晋三批判で有名な若い政治学者ですが、ユーミンは安倍夫妻と親しいので、「お前がそんなヤツだとは思わなかった」と、その事実に深く心を傷つけられたのですね。親友や恋人が、自分の一番嫌いな人と仲良くしてた。そんな感じです。そういう時、人は心にもないひどいことを言うものです。でもね、たとえ「お前なんか死ね!」と言ったとしても、その意味は、本当に死ねということではなくて、「オレあんなに好きだったのに、どうしちゃったんだよー!」とひとりで泣いているということなんです。
しかしインテリだから「偉大なアーティストは同時に偉大な知性でもあってほしかった」みたいな言い方になってしまうわけです。安倍首相に同情的であることが知性の欠如を証明するのかどうかは分かりませんが、ユーミンに対して「偉大な知性」という表現は、何だか大袈裟ですね。でもこれは、彼の落胆の深さを示しているだけで、ことさら責めるようなことではありません。別にユーミンが頭が悪いとは思いませんが、「偉大な知性」はいかにも不釣り合いですね。
そもそもアーティストは、「偉大な知性」と言われてうれしいでのしょうか? 言語を扱う作家は、わりとうれしい人も多いかもしれません。美術家も、中には喜ぶ人もいるでしょう。でもミュージシャンや、舞台芸術の人たちは、あんまりピンと来ないのではないでしょうか? いやー、褒めてくれてありがたいけど、ちょっと違うんだよな、と思うでしょう。
何が言いたいかというと、芸術というものはもちろん知性に深く関係するのですが、知性そのものではないということです。思想家は、自分が好きなアーティストに出会ったとき、「この人の作品こそ、まさに自分の思想を実現している」と惚れ込んだりしますが、それは、初恋の相手に「この人だけが自分のことを分かってくれる」と信じてしまう、中学生の恋愛のようなものなのです。アーティストは本来知的な人たちですが、政治学者や思想家と同じ「知性」を持っているわけではありません。
80年代、90年代にはそれほど顕在化しなかったのに、その後「右より」になったように思えるアーティストは、別にユーミンだけではありません。中島みゆきも、椎名林檎もそうです。では彼女らは、思想的に右翼なのか? 決してそうではありません。アーティストは自分が感じる世界の動きを、作品の中に再現しながら表現します。それが芸術表現における「思考」であり、それはしばしば奇矯だったり極端だったりします。それを、学者や思想家の「思考」と横並びに考えてはいけません。
だから、偉大な芸術家は偉大な知性でもあるというのは、ある意味その通りなのですが、そのことを理解するためには、「芸術の知」というものが思想的な知とは違うということを分かっていなければいけません。もちろん芸術家もまた一市民であり、市民として政治的行動をとったり意見を言ったり、選挙をしたりするでしょうが、そのことと、その人が芸術家として表現する「思想」とは違うのです。芸術家としての知性は、その人の市民としての知性と、矛盾することも少なくありません。だから面白いのです。そうでなければ、そもそも芸術なんて存在する意味がないでしょう。