◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 009 ◉
【A】白井さんは、ユーミンの大ファンだったのですね。特に荒井由美時代の作品が、とても好きだったようです。そういう人は、他にも知っています。ぼく自身は、ユーミンは優れたミュージシャンだとは思うけど別にファンではないので、そういう人とユーミンの話題を話すときには、ちょっと言葉に気をつかいますね。ファンというのは傷つきやすいからです。
さて白井さんが、どうしてそんなに好きだったユーミンについてひどいことを言ったかというと、それは裏切られたと思ったからです。彼は安倍晋三批判で有名な若い政治学者ですが、ユーミンは安倍夫妻と親しいので、「お前がそんなヤツだとは思わなかった」と、その事実に深く心を傷つけられたのですね。親友や恋人が、自分の一番嫌いな人と仲良くしてた。そんな感じです。そういう時、人は心にもないひどいことを言うものです。でもね、たとえ「お前なんか死ね!」と言ったとしても、その意味は、本当に死ねということではなくて、「オレあんなに好きだったのに、どうしちゃったんだよー!」とひとりで泣いているということなんです。
しかしインテリだから「偉大なアーティストは同時に偉大な知性でもあってほしかった」みたいな言い方になってしまうわけです。安倍首相に同情的であることが知性の欠如を証明するのかどうかは分かりませんが、ユーミンに対して「偉大な知性」という表現は、何だか大袈裟ですね。でもこれは、彼の落胆の深さを示しているだけで、ことさら責めるようなことではありません。別にユーミンが頭が悪いとは思いませんが、「偉大な知性」はいかにも不釣り合いですね。
そもそもアーティストは、「偉大な知性」と言われてうれしいでのしょうか? 言語を扱う作家は、わりとうれしい人も多いかもしれません。美術家も、中には喜ぶ人もいるでしょう。でもミュージシャンや、舞台芸術の人たちは、あんまりピンと来ないのではないでしょうか? いやー、褒めてくれてありがたいけど、ちょっと違うんだよな、と思うでしょう。
何が言いたいかというと、芸術というものはもちろん知性に深く関係するのですが、知性そのものではないということです。思想家は、自分が好きなアーティストに出会ったとき、「この人の作品こそ、まさに自分の思想を実現している」と惚れ込んだりしますが、それは、初恋の相手に「この人だけが自分のことを分かってくれる」と信じてしまう、中学生の恋愛のようなものなのです。アーティストは本来知的な人たちですが、政治学者や思想家と同じ「知性」を持っているわけではありません。
80年代、90年代にはそれほど顕在化しなかったのに、その後「右より」になったように思えるアーティストは、別にユーミンだけではありません。中島みゆきも、椎名林檎もそうです。では彼女らは、思想的に右翼なのか? 決してそうではありません。アーティストは自分が感じる世界の動きを、作品の中に再現しながら表現します。それが芸術表現における「思考」であり、それはしばしば奇矯だったり極端だったりします。それを、学者や思想家の「思考」と横並びに考えてはいけません。
だから、偉大な芸術家は偉大な知性でもあるというのは、ある意味その通りなのですが、そのことを理解するためには、「芸術の知」というものが思想的な知とは違うということを分かっていなければいけません。もちろん芸術家もまた一市民であり、市民として政治的行動をとったり意見を言ったり、選挙をしたりするでしょうが、そのことと、その人が芸術家として表現する「思想」とは違うのです。芸術家としての知性は、その人の市民としての知性と、矛盾することも少なくありません。だから面白いのです。そうでなければ、そもそも芸術なんて存在する意味がないでしょう。