◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 013◉
【Q】昔の小説や映画、あるいは昭和時代のマンガなどにもよく「作中には現在の人権意識からすると不適切な表現がみられますが、作品の歴史的価値を尊重しオリジナルのままで収録します」みたいな但し書きがあります。意味は理解できるのですが、そう言われると余計にその問題の箇所とはどこだろう、という興味が湧いたりします。ふつう差別語などの不適切な表現は、気にする人がいるなら言い換えればいいだけではと単純に思ったりもしますが、芸術作品の場合はそれを変えてはいけないという特別な理由があるのでしょうか? 美学ではどう考えられているのかということが知りたくて質問しました。
【A】「昭和時代」ですか‥‥(笑)。いや、もちろん2つも前の元号なので「時代」扱いされても当然なのですが、自分が生まれ30代までを過ごした時間を何気なく「時代」と言われると、つい感慨にひたってしまいます。いや、当たり前のことなのですけどね。
それはともかく、お尋ねの件。たしかに「不適切な箇所」なんて言われると、え? どこどこ? と探してしまいますよね。当然です。ではそのことは何を意味するか? それは、誰が、どんな理由で特定の表現を「不適切」と決めたのだろう? という興味が湧いてくるからです。逆に言うと、表現それ自体には、「適切」も「不適切」もありません。日常の発話でも芸術創作でも、表現とは身体から自然に出て来るものです。「適切/不適切」というのは言葉や表現を、良い悪いは別として、何らかの政治的な目的のために、操作し支配する時に生じる区別なのです。
たしかに表現に対する考え方は時代とともに変化するし、昔は許されていた言い方も、今は多くの人が聞きたくないというような言葉もあります。それでは、問題の箇所を言い換えればいいだけなのか? それでうまく行く場合もないことはないのですが、単純に言い換えただけではとても不自然になってしまうことが多いのです。言葉は私たちの生きた身体と同じで、どこかの部品が病気になったら健康な部品を移植すればいい、というわけにいきません。可能な場合もありますが、いろんな障害が出ることも少なくありません。
それでもマスコミやお役所などでは、「不適切」とされるたびに無理やり言い換えてゆきます。それによって言葉として不自然になったとしても、際限のないクレームに対処するよりはマシだからです。しかし芸術作品の場合には、細部の不自然さは作品の全体としての生命にかかわるので、そういうわけにいきません。「歴史的価値を尊重し」という言い方は必ずしも正確ではありません。優れた作品は歴史的に価値があるからではなく、歴史を越えた価値があるから変えてはいけないのです。
ただ、この「変えてはいけない」というのを芸術作品だからこそ許される特別な理由であるかのように解釈すると間違います。そのように主張すると、芸術だからといってそんな特権は認められない、と反論する人が必ず出てきます。これは「芸術だから変えてはいけない」というような「特権」ではないのです。護る理由は、無理に変えると作品として死んでしまうからという、それだけのことです。芸術とは幼な児のように弱い存在であり、護らないと死にます。が同時に、幼な児のように強い存在でもあり、死んでも必ずまた新しく生まれて来るのですが。
さて、不適切な箇所を含んだ過去の作品とどう付き合ったらいいのか? 「昔のものだから仕方がない」というのは、あんまりよくない割り切り方です。それは過去を現在より劣った時代と見下しており、過去の作品とまともに向き合っているとは言えません。かといって、むしろ過去の方が正しく、些末な言葉狩りをしている現代が間違っているのだという居直りも、倒錯しており、無理があります。いちばんマシと思える態度は、過去の作品の「不適切」な表現や世界観に、悪いと知りつつ誘惑されてしまうこと、罪悪感を感じながら魅了されるということだと思います。
芸術にとっていちばん重要なのは、表現の自由ではなく、夢見る自由です。ただ大事な点は、表現の自由は政治的に戦い取るべき権利だが、夢見る自由は闘争によって獲得したり法律で保証したりできるものではないということです。夢見る自由が作品の生命であり、それを侵害しないなら表現は変えても構わないのですが、どの表現が作品の生命に関わるか、簡単に分からないこともあります。未知の生き物の身体の、どこを切り取ったら致命傷になるのか分からないようなものです。だから安全のためにそのままにしておく場合が多いのです。