関西学院大学 大学院「美学特殊講義1」
第1回(2020年5月20日 水曜4限 15:15-16:45)
関西学院大学の大学院生の皆さん、こんにちは。2020年度春学期の授業「美学特殊講義1」を担当する吉岡です。現在の状況下において講義をどのように実施すべきか検討した結果、このような形で進めることに決めました。この講義が予定されていた日時、水曜日の4限(15:15)に、今行っているような形で文章としてアップロードしますので、その内容に関連した短いレポートを作成し、次の週の水曜15:15までに送ってください。詳細は学内の教務システムとメールで通知します。本日は初回ですので、この講義についての全般的な紹介と、今回なぜこういう形で講義を行うことにしたのかという理由について、お話ししたいと思います。
この講義「美学特殊講義」は、これまで様々なトピックを扱ってきました。私のバックグラウンドはヨーロッパの近・現代思想なので、カント(Immanuel Kant, 1724-1804)の哲学やその後のドイツ観念論、19世紀の美学芸術学の概説を試みたこともありました。またプラトンの対話篇『テアイテトス』『饗宴』『パイドロス』や、ギリシア哲学に関する基本文献を読みながらディスカッションしたこともありました。ヘーゲルの『精神現象学』や、希望によりキルケゴール(Søren Kierkegaard, 1813-1855)の著作『現代の批判』他を講読したこともありました。2年前は、学生の希望でスローターダイク(Peter Sloterdijk, 1947-)の『魔の木』を講読し、フランス革命直前の心理学、動物磁気やメスメリスム(mesmerisme)のことを調べたり、フロイト(Sigmund Freud, 1856–1939)の芸術関係論文をテキストにしたりしました。昨年度は、西洋圏の芸術研究をする基礎的教養としてアラン・コルバン(Alain Corbin, 1936-)の著作をテキストとして用いながら、宗教革命以降のキリスト教の歴史や、古代から近代までの文学的想像力を支配した(そして1960年代の「性の革命」によって滅びた、とコルバンは言う)「夢の女」、あるいは「処女崇拝」のトポスについても考えました。
そして今年度ですが、昨年の秋に作成したシラバスでは「メディアアートの哲学」のような内容を予定していました。つまり情報テクノロジーを用いた芸術表現の背後にある、哲学的・思想的問題について、自分でも改めて考えてみようと思って計画しました。それはおよそ以下のような内容です。
授業目的:デジタル技術と芸術表現との関係について理論的・哲学的に探究する。
Course Purpose: Theoretical and philosophical study on relations between digital technology and artistic expression.
授業概要:「メディアアート」とは大雑把にいえば「デジタル情報技術を用いた芸術表現ある いは芸術作品」と理解されているが、その正確な定義も、それが伝統的な芸術とど のような関係にあるのかということも、いまだに曖昧なままである。こうした問題 は、個々の「メディアアート」作品の観察からボトムアップに解明されるというよ りも、人間とテクノロジーとの関係、とりわけデジタル情報技術が私たちの世界観 や生の経験にとっていかなる意味を持つのかを、歴史的・哲学的な視野から考察す ることを要求する。この講義ではそうした観点から、メディアアートを理解するた めの理論的な枠組を、科学史、技術史、哲学、美学、精神分析、記号論等の知見を 参照しつつ、インターネット、グローバル化した社会と文化、人工知能のインパク ト等の現代的な文脈において構築することを目標とする。
・第1回:講義の概要説明と、いくつかの基本概念の考察1──「技術(art)」「技巧(technique)」「芸術(fine art)」「科学技術(technology)」等
・第2回:いくつかの基本概念についての考察2──「技(techne)」「直感」「知識」「機械」他
・第3回:理性と計算、ニュートン、ライプニッツ、因果性、古典的決定論
・第4回:有機体と自動機械(オートマトン)、18世紀の唯物論と生命哲学、機械論
・第5回:カント『判断力批判』の世界、「自然の技巧」、「美しい技術」、「目的なき合目的性」
・第6回:「フランケンシュタイン」の哲学、人工物と人間の危機
・第7回:「不気味なもの」、「フランケ ンシュタイン・コンプレック ス」と 精神分析
・第8回:産業革命の文化的インパクト、19世紀の物理主義、チャールズ・バベッジの解析エンジン
・第9回:戦争とコンピュータ、「暗号」 の美学
・第10回:マルチン・ハイデガーの技術 論、サイバネティクスの哲学
・第11回:「生命記号論 (biosemiotics)」について
・第12回:情報処理としての生命 (1) 新たな機械論の誕生、自己組織性
・第13回:情報処理としての生命 (2) オートポイエシス、複雑系、人工生命
・第14回:インターネット、ドローン、人工知能、シンギュラリティ
・第15回:まとめ──メディアアートの美学
しかし今年に入って、新型コロナウィルスの感染拡大とそれに対する世界的な政治的・社会的混乱によって、大学における対面形式の授業がほとんど不可能になるという、未曾有の事態が発生しました。それに対処するために、画像や音声を伴った遠隔コミュニケーションを可能にするツールを使って講義を行うことが、一般には行われているようです。
しかし私は、zoomなどのシステムを用いて講義を行うことに、どうしても興味が持てないのです。いや、興味がないとか気楽なことを言ってる場合じゃなく、学生の学ぶ権利を保証するためにはやらないかんだろうと言う人がいるかもしれませんが、私はオンラインによる授業が、対面的な授業の代わりになるとは思っていません。
といっても、オンラインの講義など無意味だと言いたいわけでは決してありません。それは後述するように、対面的な講義よりも優れた点が確かにあります。ただオンライン講義は、「講義」という名前は付いているものの、本当は講義とはまったく別な何かなのです。メディアやテクノロジーについて根本的に考えれば、そのことが分かります。したがって、まさに「メディア」というものを考察の対象にしようとしていた今年度の本講義においては、そのことをはっきり意識しておく必要があると思いました。
今回の状況によって、講義などオンラインで十分であることが分かった、という人もいます。今後ウィルス感染の問題がなくなっても、講義などはオンラインの方がずっと効率的だから、対面式の授業はもうゼミだけでいいのではないか、という意見もあります。それはそれで、間違っているとは思いません。そのように考える人は、講義というものに対する根本的な見方が私とは違うからです。
もしも講義というものが、客観的な仕方で整理された知識を効率的に伝達するという活動であるなら、確かにそれをオンラインで行うことに大きな利点があると思います。学生も教員も、わざわざ教室という特定の場所に出向く必要はないし、資料提示も板書やプロジェクターによるよりも、着席する場所に関係なくハッキリと見えるし、教員の声も明瞭に聴こえる、講義そのものを動画として記録を撮ることもできるし、また教室にいる他の学生の眼を気にすることなく質問もできる、等々といった大きなメリットがあります。
けれども‥‥、私は今大学での教員生活の終わりに差しかかっていますが、これまでの30年間余りを振り返ってみて、自分がやってきた講義とはそうしたもの(客観化された知識の伝達)ではまったくなかったことが、現在の状況によってますます明確になったと感じています。たしかに、私の講義も講義であるかぎり、何らかの情報や知識を伝達してきた側面はあるのですが、それは決して講義の目的ではなく、いわば副産物に過ぎないのです。それでは何が講義の中心的意味をなすかというと、それはまず何よりも、特定の時間や場所を共にするということです。簡単に言えば「一緒にいる」ということですね。
人間同士が「一緒にいる」ことは、かつては「情報を伝達する」ことと重なっていました。それに対して情報テクノロジーは、「一緒にいる」ことなしに「情報を伝達する」ことを可能にします。そのことによって、「情報を伝達する」という目的のためには「一緒にいる」必要はなく、したがって「一緒にいる」ことは意味を失いましたが、その反面、「情報を伝達する」という目的を離れた「一緒にいる」こと自体の意味は、かえって際立ってきたわけです。
もちろん、こうしたことは情報テクノロジーが突然可能にした事態ではなく、そもそも文字言語が、「一緒にいる」ことなしに「情報を伝達する」ことを可能にしたメディアなのであり、私たちの文明はそうした広い意味での文字言語の上に構築されています。文字言語によって私たちは、時間的にも空間的にも遠く離れた人々の思考や感情に触れることができるわけです。情報テクノロジーとはある意味で、文字言語のこうした能力を、途方もなく拡大し先鋭化したものに他なりません。
講義というものも、少なくとも近代における大学のような講義のモデルにおいては、そうした文字言語の能力を前提としています。そこでは確かに人々が特定の時間や場所に集まって、教師の話を聞いたり議論したりしているのですが、客観的な知識の伝達という点から見ればそうした時空間的な固有性は本質的に重要なことではなく、原理的に変更可能なものなのです。だからこそ、オンライン講義は「講義」であることが可能なのだと思います。可能であるどころか、オンライン講義は「講義」がそもそも持っていた非時間的・非場所的な性格を独立させ、講義をそれらの制約から解放するものであると考えます。
と同時にオンライン講義という状況は、講義という活動に潜在していたまったく別な性格をも露わにしていると思います。それが「情報を伝達する」ではなく、「一緒にいる」という側面です。たしかにオンラインの講義は、一見対面的な講義をシミュレートし、それを効率化しているだけのように見えます。けれども、近代的な講義の形式が、明るい部屋(啓蒙された空間)で黒板やプロジェクションの映像を背後にして何かを語るというようなイメージだとすれば、オンライン講義を可能にしている現代の情報テクノロジーは、そうした近代的な講義を極限にまで効率化することによって、講義という行為の近代的な見かけの内部に隠れていたものを、露わにしているとも思えるのです。
それは何かというと、言ってみれば、私たちの遠い祖先たちが焚き火を囲んで集まって、長老やシャーマンの話に耳を傾けているような情景です。皆さんは、そんなものは文明化以前の原始的な段階であって、現在の私たちの世界には関係のないものだと思うでしょうか? 私は決してそうは思いません。過去は完全に過ぎ去ることはなく、私たちが「新しい」と信じている活動や行為の隠れた「核」のようなものとして、生き続けているのだと考えています。そしてその「核」が、最先端のテクノロジーによって、再び力を獲得し、表に現れていることがあるのではないか?と。
私は、現在の状況をそのように眺めています。
だから、オンライン講義が近代的な講義を単に「代行」するものであるとしたら、私はそこにはあまり未来的な可能性を感じることができないのですが、それは私が情報テクノロジー自体を忌避しているからではなく、むしろ逆に、私たちがまだ思っても見ないような可能性が、オンラインの教育活動のようなものには潜在しているのではないかと考えているからです。そうした可能性を模索し色々と試してみることが重要ではないかと思います。
そこでそうした模索のひとつとして、今回はこのブログを用いて講義してみることにしました。したがって映像も音声もなく文字言語ベースであり、またこのブログはコメントを許可していないので、インタラクティブでもありません。こんなやり方は一見、今の流れには逆行していると思う人もいるかもしれません。しかし、これもオンラインであることは確かなのです。そして、これは公開です。つまり関西学院大学大学院という特定の場所で話すべき講義内容を、誰でも見られる形で投稿しているのです。なぜ、そんなことをしようと思ったのかということを、最後に簡単に説明します。
私は今「京都大学こころの未来研究センター」という機関に勤めていますが、2016年にここに赴任する以前は、京都大学大学院文学研究科という所で、美学芸術学の教授として約10年間教えていました。講義科目としては主に、学部生向けの「美学講義」と、大学院向けの「美学特殊講義」というのを毎年担当していました。そのいずれの講義も、外部からの聴講を黙認していました。聴講と言っても、正規の聴講生ばかりではなく登録なしの、いわゆる「モグリ」の受講生たちです。それは、美学を含む人文学の講義というのは、授業料を対価として与えるサービスのようなものではなく、また私がその著作権を所有できるというようなものでもなく、基本的には「パブリック・ドメイン」だと私は考えているからです。(文学部での講義については、退職した時に同窓会の雑誌『以文』に回想を書き本ブログにも公開したので、それを参照してください。→「文学部での授業」)
数年前から行ってきたこの関西学院大学の「美学特殊講義」も、同じような考えで行ってきたので、年によっては外部から継続的に聴講する人がいたり、仕事を休んで特定の回だけ参加したゲストもいました。しかしながら京都大学文学部と違って関西学院大学は、その立地があまりにも素晴らしすぎて、気楽に立ち寄ることが必ずしも容易ではない、という声も耳にしました。それでこの機会に、誰でもが見られる公開のブログを講義の場にして、名実ともにパブリック・ドメインにしてしまえばどうかと考えたわけです。これがいい考えなのかどうかは、やってみないとまだ分かりません。
またYouTubeのような動画の配信ではなくテキストだけにしたのはなぜか、ということにも理由があると言えばあります。ひとつは、講義を動画として面白く作り込むには大変な手間がかかるからです。誰かが手伝ってくれれば出来るのかもしれませんが、現在のところそうしたことをする余裕がありません。もうひとつは、多チャンネルが可能な状況であえて1チャンネルに絞ったり、マルチメディアの時代にあえてテキストだけにすることによって、うまくいけばその絞られた情報にパワーが出てくるからです。もうかなり昔になりますが、同志社大学の「現代芸術論」の初回の講義をTwitterで行ったことがありました。(“togetter”にまとめられていて今でも見ることができます。→「新幹線の車中からTwitterでおこなわれた美学者吉岡洋氏による同志社大学「現代芸術論」講義と反応」)これは最初から意図したわけではなく、東京出張からの帰路が遅れて講義に間に合わないことが分かり突然思いついて行ったのですが、非常に緊張した面白い経験になりました。極めて限られた量の文字であったことや、リアルタイム性があったからだと思います。
今回はこのようにブログですから、文字数に制限はありません。しかしある種のリアルタイム性を意図的に作り出してみようと思います。つまり、このテキストは毎週、本来の講義が始まるはずの日時(水曜4限の開始時)に公開します。文字数は決めていませんが、毎週およそこの程度の分量のテキストを、春学期の間書いていきます。これは自分に課したひとつの試練のようなものでもあります。これまでこのブログには、不特定の人に読まれることを想定して、あるテーマを持った短いエッセイを載せてきました。それに対してこのテキストは、大学院の講義に出席している6名の受講生に向かって書いています。(語りかける気持ちで書いているので「ですます」調になっています)。とはいえ同時に、他の人にも読まれる可能性があるという気持ちもあるので、モグリの学生たちがたくさんいた昔の京大文学部での講義にちょっと似ているのです。
うまく行くかどうか、とにかくやってみましょう。受講生の人はメールを利用して、レポートだけでなく質問や意見、要望も遠慮なく送ってください。
【参考文献】
○ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』(林正寛他訳、藤原書店、1991)
○室井尚・吉岡洋『情報と生命──脳・コンピュータ・宇宙』(新曜社、1993)
○ジョージ・ランドウ『ハイパーテクスト──活字とコンピュータが出会う時』(若島正他訳、ジャストシステム、1996)
○吉岡洋『〈思想〉の現在形──複雑系、電脳空間、アフォーダンス』(講談社、1997)
○フリードリヒ・キトラー『グラモフォン、フィルム、タイプライター』(石光泰夫他訳、筑摩書房、1999)
○ヴィレム・フルッサー『写真の哲学のために──テクノロジーとビジュアルカルチャー』(室井尚解説、深川雅文訳、勁草書房、2004)
○吉岡洋「アーティフィシャル・マインドをめぐって」(『こころの未来』vol.21、京都大学こころの未来研究センター、2019)