関西学院大学 大学院「美学特殊講義1」
第2回(2020年5月27日 水曜4限 15:15-16:45)
講義2週目です。5月も終わりに近くなりました。皆さんは元気ですか?
この1週間も、いろんなことが起こりましたね。この講義を聴いている多くの若い人たちにとってはもちろんだと思いますが、60年以上生きている私も、このような世界的な非常事態を目の当たりに経験するのは初めてです。自分が生きている間に、こんなことが起こるとは予想していませんでした。
私が生まれたのは1956年で、太平洋戦争の敗戦から11年後です。生まれるほんの10年余り前まで世界戦争があったと思えば物凄い時代ではあるが、もの心ついた頃には、戦争は意識の上ではまるで遠い過去のように感じていました。幼児期の1950年代後半から子供時代を過ごした1960年代の世界には、米ソの冷戦があり、ベトナム戦争があり、キューバ危機があり、途方もない回数の核実験があり、チッソミナマタ病があって、人類文明は自分が大人になるまでに壊滅するのではないかという漠然とした気分がありました。けれどもそこには、当時読んでいた漫画やアニメやSF小説に影響されたイメージも強く混入していたと思います。たしかに核戦争の危機や深刻な環境汚染は現実なのだけれども、それは自分が直接経験している家庭や学校や周囲の社会のリアリティとからは遠い、別な世界で起きている出来事のようにも感じていました。それに比べると、現在の新型コロナウィルスの世界的な感染拡大は、周囲の日常世界に直接、リアルタイムで関わってくる危機であり、こうした経験は今までありませんでした。
『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』など世界的なベストセラーで有名なイスラエルの歴史学者ハラリ(Yuval Noah Harari, 1976)が、3月20日付の『Financial Times』というイギリスの新聞に、コロナによって今は世界中の人々の行き来が制限され、自国中心主義的な風潮が強まっているけれども、最終的にはこの危機に対処するためには、グローバルな協力体制が必要となるという趣旨の記事を載せました。たしかにコロナは大変な問題ではあるが、それを機にグローバルな協調を作り出すチャンスでもあると、同意する意見も多くありました。私も、そうであって欲しいし、その通りになれば素晴らしいと思うのですが、同時になぜか、自分が子供の頃に親しんだSF小説で頻繁に読んだひとつのプロットを思い出し、奇妙な既視感に襲われました。
その典型的なプロットとは、ある日、戦争ばかりしている地球に宇宙人がやってくるというものです。宇宙人は敵対的な場合もあり、友好的な場合もあります。敵対的な場合は、もちろん地球人類は一致団結して敵と戦わなければならないから、自分たち同士でケンカしている場合ではない、ということになって、国家間の戦争はなくなり地球防衛軍が作られます。また友好的な場合には、はるばる地球を訪問してくれた、人類よりずっと進歩した知的生命体の前で、いまだに互いに醜く争っている自分たちが恥ずかしくなり、国際的な協調が生まれることになる。いずれにしても、宇宙からの「外圧」によって、地球人類は一段階進歩する、というものです。
そうなればいいけれども、本当になるのかな、と思いました。というのは、宇宙人ではないけれど、画期的な技術革新という「外圧」によって、人類が地球レベルで新たな協調の段階に突入するのではないかという空想は、19世紀の終わり以来、私たちの想像力を強力に支配してきたものだからです。一般の人々だけではなく、そうした新技術を切り拓いた天才的科学者たちですらそうでした。
たとえば、ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベル。ある時期までは、ノーベル賞のイメージに傷がつかないように、ノーベルはダイナマイトを土木工事など人類の幸福のために作ったのであって、それが戦争で大量殺戮にも使われるなど想像しなかった、というような伝説が流布していましたが、それは全くのウソで、ノーベルはダイナマイトが強力な兵器に転用されることをもちろん知っていました。あるいは、「化学兵器の父」とも呼ばれるフリッツ・ハーバー。もともと彼は、空気中の窒素からアンモニアを合成し、そこから作られた化学肥料によって世界中の農業の生産性を革命的に高めることになる「ハーバー・ボッシュ法」の発明者なのですが、後には強力な毒ガスを開発し、それは第一次世界大戦で使用されて大量の死者を出しました。そしていうまでもなく「マンハッタン計画」による原子爆弾の開発。数え上げればキリがありません。
科学者に憧れていた私は子供の頃、新たな技術を開発した彼らは、純粋な科学的探究心だけに突き動かされていたのであって、自分たちの研究が結果として大量破壊・大量殺戮に使われるなど思いもしなかったのだろう、と想像しました。たしかに子供向けの偉人伝にはそう書いてありました。けれどもやがて、そうではないことが分かりました。冷静に考えてみれば、そんなに頭のいい人たちが、自分の新たな科学的発明が戦争に使用されることを、予測できないはずはないのです。ではそうした科学者たちは、個人としては博愛主義的で平和主義的な傾向を持っていたようにみえるのに、この事実を一体どう考えていたのでしょうか。
それはこういうことだと思います。つまり、あまりにも強力な破壊力を持つ兵器を手にすれば、それを使って殺し合う戦争という行為の愚かさに、人類はついに目覚めることになるであろう、と彼らは考えたのです。戦争とは前時代の野蛮な殺し合いの伝統で、新技術の登場によって端的に「時代遅れ」になる。つまり、人類の「理性」と文明の「進歩」を信頼していたということですね。科学技術に限らず、20世紀前半までの政治的・文化的改革者たちのほとんどは、ラディカルな理想主義者でした。啓蒙、つまり正しい教育によってどんな人でも理性や善意に目覚めるし、正しい知識の普及が進むことによって、人類はどんどん進歩してゆくであろう、と考えました。
私たちは彼らを、古き良き時代の楽観的理想主義者だとして笑うことができるでしょうか? たしかに彼らの予想とは異なり、強力な新兵器によって人類は平和に目覚めるどころか、それを使って新たな戦争や軍事ゲームを始めました。科学技術の進歩は人間をより理性的にする代わりに、人間の度し難い愚かさ、啓蒙によっては克服できない愚かさを露わにしました。そういう歴史的経験を経ているので、現代の私たちはともすると、一世紀前の理想主義を上から目線で長閑なものだと笑うかもしれません。
けれども、そういう私たちとはいったい何なのか? 20世紀前半の知識人のように、人類の理性を素朴に信じることができないことは分かったのだけれど、それでは私たちは彼らよりも先に進んでいるのかというと、実は全然そうではないのです。たしかに、学術や文化の個々の領域はより専門化し精密化して、一見進歩しているように見えます。けれどもそれらは、多くの人々が共有できる新しい理想を何ら生み出していないのです。なのに、何となく理想主義的な言説をバカにすることだけはみんな上手になったというか、シニカルなことを言ってれば頭がよく見えるみたいな雰囲気だけが広がったというか、そんな感じなのですね。これが、およそ現代の私たちが置かれている知的状況だと思います。
美学の先生なのに何でこんな、世界や人類の運命について心配してるのかと疑う人もいるかもしれませんが、実は美学というのは、究極的にはこのような大きな問題に直結する学問なのです。美学というのは18世紀、ヨーロッパの啓蒙主義の時代にスタートした研究活動で、したがって美学の問題を考えることは、「啓蒙」や「理性」の本性や、その限界という問題に関わらざるを得ないからです。これは重要なことなのですが、しかしこの議論はまた別な機会に残しておきましょう。
‥‥というわけで、そろそろ今日の講義に入ってみようかな。
シラバスに忠実にという意図からでもないのですが、まずは手がかりとして「技(わざ)」、「技術」、「テクノロジー」、そして「身体」と「暗黙の知識」といった概念を最初の手掛かりに、今週から考えてゆきたいと思います。しかしここではこれらのトピックを、美学や思想史に属する既存の知識としては扱いません。解説的な知識であれば、辞書や本を読めば得られるし、ネットを検索するだけでもある程度は手に入れることができます。
この講義ではそういうことではなく、いわば概念を「知る」のではなく「使う」ことを、一緒にレッスンしてみたいのです。概念は、ただ知っているだけではどうにもなりません。自分自身の思考の道具として運用することができなければ、ただのお飾りに過ぎない。飾りとしての概念は、思考にとって有用というよりも邪魔になります。でも世の中には飾りの好きな人もいれば、飾りに過ぎない概念をいかにも意味ありげなものとして振りかざして人を支配しようと企むペテン師もたくさんいるので、騙されないように気をつけてください。
とはいえ皆さんは、新しい概念を自分で使ってみることについて恐れる必要はありません。自分はその意味をまだ十分理解していないから使うことができない、と思わないでください。理解するには、とにかく触ってみること、使ってみることが重要です。金槌がどんな道具であるのか、ジッと観察するだけで理解することはできないし、効率的でもありません。使うことによって理解するのです。もちろんはじめはうまく扱えないし、ケガをすることもあります。でも失敗や小さなケガは必要なのです。ただし大怪我をすると困るので、そのために(だけ)教師が必要なのです。(こういうのが私の抱く講義のイメージで、だからオンライン授業では無理なのです。)
さて、美学上の概念を使えるものとしてセットアップするには、それをまず私自身が目の前で使ってみせることが必要ですね。そこで、技(わざ)、技術、テクノロジー、そして身体と暗黙知といった話題に、今の状況を手がかりにしてアプローチすることを試みてみたいと思います。うまく行くかどうかわかりません。私の講義はしばしば、脱線が脱線を呼び、どこから脱線したのかみんな忘れる頃再び本線に戻る、というような成り行きが多いのです。自分が失敗して小さなケガをすることもあるかもしれませんが、その時には誤魔化さず見せます。反面教師も教師ですからね。これは居直りじゃなくて、どんなにマズい講義をしてしまっても、反面教師ですらない単なる情報伝達マシンよりはマシではないかと思うからです。
さて、現在私たちが置かれている世界の状況を見渡してみましょう。緊急事態が解除され始め、社会生活や経済活動が戻り始めている現在、多くの人々の関心は、新型コロナウィルスによる感染それ自体への配慮から、コロナ以後の世界はいったいどうなるのだろうかという将来への不安の方へと、少しずつシフトしつつあるように思えます。誰もが大きな不安を抱いていることは同じなのですが、しかし人によって、それについて語る調子には、かなりの違いがあるように見受けられます。美学的な観点からするなら、いかなるトピックに置いても、その内容よりも語り口、表現、比喩、レトリックといったものが、どうしても気になるわけです。
一般に「知識人」は、いろんな警鐘を発します。彼らは、新型コロナウィルスは人類の文明の姿を大きく変えるだろう、したがって私たちは新しい世界観や生活様式を発展させなければならないだろう、といった語り方をします。なぜなら感染症の拡大は、地震のように文明とは無関係に生じた災害ではなくて、その背景にはテクノロジーの発達による人口の爆発的な増加、大量の人や物資の移動、世界経済の相互依存性の拡大、自然破壊といった人為的な条件があると考えられるからです。その意味で、コロナウィルスとは過剰な文明化に対する私たちへの「警告」だと言う人もいます(これは神学的な考え方です。昔であれば「神の罰」、その近代バージョンが「自然による人類への警告」で、この2つは概念としてはほとんど同型です)。したがってコロナ以後の世界に生きるためには、私たちはこれまでの思考や行動の習慣を変えなければならない。「‥‥なければならない」「‥‥すべきである」という形で結ばれるのが、一般に「知識人」の語り方の特徴です。
ちなみに私がここで「知識人」と呼んでいるのは、何も大学教授、学者、評論家といった、専門的職業に就いている人々のことだけではありません。知識を言語によって明示的に整理し、それに基づいて合理的な予測や方針を立てるといった規範を受け入れている人々のことです。現代ではインターネットのおかげで、多くの人がいわば「ミニ知識人」になっています。ちょっと熱心にネットを検索すれば、誰でも専門的な用語や言い回しを習得して、それらしいコメントを発することが容易にできます。もちろんネットで発言している人々の多くは、ソースとする情報が間違っていたり、推論が不完全であったりすることも少なくありません。しかし証拠や推論に基づいて相手を説得しようとし、「だからこうすべきだ」と主張する「知識人」的な語りの態度においては同じなのです。この語りの領域では、科学的あるいは政治的な「正しさ(コレクトネス)」を競うことが規範となります。そしてより多くの人から「正しい」と認知されれば、それは政治的扇動(プロパガンダ)の武器として用いることができるのです。
「知識人」的な語りに対して、たとえば私がさっきスーパーに買い物に行って世間話をした近所のおばあちゃんは、まったく異なった仕方で話します。「えらいことになりましたなぁ、いつまで続くんでっしゃろ」などと話します。自分の周囲に直接感染者や重症患者が出ていないので、感染そのものに関してはそれほど深刻に感じないが、知り合いのお店の売り上げが減って、もうお店が続けられなくなるのは心配だと言います。大阪市で小中学校に透明のフェイスシールドを付けて登校させるらしいという話を聞いて、「そんなけったいなこと、なんでそこまでしなあかんのやろか」とも。またテレビのニュースで、コロナで亡くなる人は感染防止のために家族や親戚すらその死に目に会えない、お葬式もマトモにできないというのを観て、「そんな可哀想に、なんぼ何でもそんなひどい話があるかいな」とため息を漏らします。
こうした日常的な「語り」は、論証や説得、主張といったものではなくて、言ってみれば「つぶやき」です。さて当たり前のことですが、人間には「つぶやく自由」があります。それは「夢みる権利」と同じくらい、当たり前すぎて、憲法の基本的人権の項目にわざわざ言及されることすらありません。そしてこの「つぶやく自由」は、実空間においては言うまでもなく、ネット上においてももちろん保証されるべきものです。
しかしながら、今日のインターネット空間を支配しているのは、「知識人」的な語り(少数はマトモで大多数はゴミではあるが、その質は別として)の規範です。インターネットとは基本的に共有地(コモンズ)であるはずなのに、それ以外の語りのパターンが排除されているように見えます。奇妙なことに、ツイッター(Twitter)と呼ばれるネットワークにおいては、「ツイート(つぶやき)」が許容されていません。そこで「ツイート」と呼ばれている言説の規範は、実は政治的扇動のモデルに近いものです。芸能人や普通の人が素朴に自分の気持ちをつぶやいても、それは未熟なプロパガンダであると解釈されて攻撃されます。本来、何となく口から出るからこそ「つぶやき」であるはずです。表現の自由よりもはるかに根源的であるはずの「つぶやく自由」が、ここではあからさまに侵害されているわけです。
どうして私がこんなに「つぶやき」の肩を持つかというと、そうした日常的な語りこそが、一見ただの素朴な生活実感の表明のように見えるかもしれませんが、実は「知識人」的な語りがしばしば陥ってしまう根本的な誤謬について考えるために、きわめて重要な手掛かりとなるからです。「つぶやき」が大切なのは、それがしばしば、身体の中にある暗黙の知識が、直接言語の中に湧き出してくるメッセージであるからです。「知識人」的な語りが日常的なつぶやきよりも常により信頼できるという保証は、どこにもありません。知識を持つ人はそうでない人よりも、専門家は素人よりも常に必ず正しいことを言う──そんなことは決してありません。落ち着いて考えてみればそれは当たり前のことなのだけれど、「知識」は時々、この当たり前のことを見えなくしてしまうのです。
イタリアの哲学者ジョルジオ・アガムベン(Georgio Agamben, 1942- )は、コロナなんて普通の風邪とおんなじであって、現在の緊急事態とはウィルスが必然的にもたらしたものではなく、政治的に捏造された「例外状態」であると発言して、大変な物議をかもしています。これを聴いた時、私は2001年9月11日の「同時多発テロ」で崩壊したニューヨークの世界貿易センタービルについて、現代音楽の作曲家シュトックハウゼン(Karlheinz Stockhausen, 1928-2007)が「最大の芸術作品」という言い方をして、世界中で演奏会をボイコットされた時のことを思い出しました。もちろんそれらは、スキャンダルの好きな人々が彼らの言葉を曲解し、文脈を無視して引用して槍玉にあげた結果ではあるのですが、それにしても彼らはなぜ、人々がいちばんナーバスになっている時に、その神経を逆撫でするようなことを言ってしまうのでしょうか。炎上によって有名になりたいからではもちろんありません。彼らはすでに十分有名な人々ですからね。
彼らは、思わずそうつぶやかずにはいられなかったのだと私は考えます。つまりそれらの言葉は、「知識人」的な語りとは、根本的に異なった種類の言説だということです。私たちが受け入れている「知識」に従えば、新型コロナが普通の風邪でないこと、テロが芸術でないことは当たり前です。また、感染のリスクを防ぐためにはできるだけ接触を減らすこと、コロナウィルスによって亡くなった患者の遺体には、たとえそれが自分の近親者と言えども近寄らないことが、「合理的」な判断であることもまた自明です。だがそうしたことを理解したとしても、私たちには、いくら何でもそんなひどい話があるか、そんなことがまかり通る世界は何かが根本的に狂っているのではないか、という実感を口にする自由があるのです。
さらに言うなら、なぜ私がいわゆるネット講義をせず、こんな形で学生に話しかけているかということにも、色々と理屈はこねていますが、実はそんなに合理的な根拠はないのです。ただ、この状況でネット講義なんて「何となく、とてもイヤだ」と感じているだけなのですが、これも言ってみれば「つぶやき」であって、つぶやく自由を行使しようとしているのかもしれません。私は大学教授なので常識的には「知識人」の側に分類されるのでしょうが、つぶやいている限りにおいてはたぶんそうではないと思います。「知識人」の反対は何と言うべきか分からないけれども、仮に「野蛮人」とでも言っておきましょうか。私たちの生は本来異なった種類の語りから成り立っており、それが容認されているのが健全な状態です。しかし今の世界はすべてが「知識人」的語りの規範に一元化されており、きわめて不健全だと思います。知識を得るのではなくそれを道具として使うことを目指す私の講義は、いわば学生をもっと「野蛮人」の側に引き込もうと、誘惑しているということなのかもしれません。
‥‥うーん予想通り(笑)、かなり脱線してきたようですね。でも本当は、それほどの脱線ではないのかもしれません。
以上のような考察をもとに、「技(わざ)」「技術(テクニック)」「テクノロジー」という概念を少し整理してみたいと思います。まずこの中で「技術」というのは中立的な概念で、「技(わざ)」や「テクノロジー」をも含む、広範囲のものを意味することができます。したがって「技術」を中心に置いて、その両極端に「技(わざ)」と「テクノロジー」を対比してみることが重要となります。
「技(わざ)」とは何か? 美学史上は、それはギリシア語の「テクネー(τέχνη)」に遡行できる概念ですが、思想史に関心のない人は、そんなことはあまり気にしなくても大丈夫です。「技(わざ)」とは、一種の知識でしょうか? 「技(わざ)」はたしかに広い意味での知識の一種ですが、それは生きた身体に埋め込まれた知識であり、身体の存在なしには意味をなさない知識です。「技」は言語(λόγος)としても表現できますが、表現された言語だけを抽出すると、「技」という知識のリアリティは失われてしまいます。それは原理的なことであって、抽出の仕方をもっと工夫すれば解決できる、という問題ではありません。(先ほどまでの雑談(ではないのだけどね)の文脈で言い換えるなら、「つぶやき」をどれほど精密化しても「知識人」的な語りに置き換えることはできない、ということとパラレルです。)
人工知能研究には、「エキスパート・システム」と呼ばれる課題があります。それは、専門家の行う高度な判断を、コンピュータによって代行させるという課題です。たとえば医師による病気の診断をもしも人工知能によって代行できれば、社会的に大きな利益が生まれるであろうことは、誰でも容易に想像できると思います。その際、診断の精度はもちろんパーフェクトである必要はなく、平均的な人間の医師の能力と同等かそれ以上であれば、とりあえず十分でしょう。これだけではなく、車の「自動運転」やその他のAI研究のプロジェクトも、哲学的に見ればやはり同じような意味を持つ課題です。
医師の診断とは「技(わざ)」です。コンピュータのプログラムとは「言語」です。だから「エキスパート・システム」というのは、「テクネー(τέχνη)」を「ロゴス(λόγος)」に置き換えるという課題です。そんなことができるのでしょうか。できるのかできないかという二択で言うなら、もちろんできます。専門家による複雑で高度な判断とされるものの大部分は、一つ一つ精密に分析すれば言語化可能な知識の論理操作によって成り立っているからです。たとえ言語に還元することが困難な要因があるとしても、その要因の影響力が、人間と機械の判断力の決定的な差に影響する範囲よりも小さければ、無視することができます。
「技(わざ)」というのは決して、いわく言い難い神秘的なものではありません。それは身体的経験を通して獲得することのできる、知識のきわめて一般的な形態です。「技(わざ)」は、それを習得した者にとっては比較的単純で自明なものとして経験されるのですが、そうでない者にとってはとても困難な課題のように見えます。身体の内側から経験するとシンプルで、その外から観察する時には非常に複雑に見えるということです。別な言い方をするなら、「身体」が存在するとはまさにこういうことなのです。その内側からと外側からとで全く違う景色が見えるということが、ほとんど「身体」の定義のようなものです。内側から生きられるものが身体であって、つまり「内側はある」というのが、身体の存在を認めることです。病院に行けば、エコーやMRIで身体の中を画像化して見せてくれますが、あれは身体ではありません。科学とは内側を認めない立場です。それは科学の欠点ではなくて本性です。こんなことを言うと科学者は「ではその«内側からの経験»の秘密も科学的に観察し解明してみせよう」などと言いますが、こうした態度がまさに「内側がない」ことを証明しているのです。(科学の「内部」にいる限りこのことは見えませんが、それは当然であり、それでいいのです。)
「テクノロジー」というのは、「技術」の中の言語化可能な部分だけを抽出して、それを大規模に組織した体制のことです。それはいわば、言語(ロゴス)化された技(テクネー)です。私たちの世界は、テクノロジーに支配されています。その意味は、社会や日常生活が直接テクノロジーの支配下にあるというだけではなく、私たちの世界観、人生観、基本的思考パターンがテクノロジー的な論理によってコントロールされているということです。私たちの多くは、専門的科学者でも職業的技術者でもありません。にもかかわらず、私たちの多くは公的に共有すべき言葉を話す時、科学的・技術的な合理性の規範から逸脱しない語り方をするように、知らないうちに誘導されています。これが、テクノロジーの論理にコントロールされているということです。先ほどカッコ付きで「知識人」の語りと呼んだのは、そうしたもののことです。
‥‥さて、すでにかなりたくさん喋って(書いて)しまったので、やや中途半端ですが今週はこれで終わりにしたいと思います。この続きはまた来週。