台風で中止になった昨年10月の美学会全国大会におけるシンポジウムを、会場であった成城大学にご協力いただいて、今年1月12日(日)に開催することができた。美学会が抱えるさまざまな問題が議論されたが、その中で、組織における男女比のバランスについての問題提起があった。これは美学会に限らない日本社会の一般的問題であるので、その時の議論を思い出しながら少し考察してみたい。
学会に限らず多くの組織において、委員会や理事会など、管理や決定の権限を持つグループの構成員は、その男女比率が組織の構成員全体の男女比率と同じではない。言うまでもなく、上層に行くほど男性比率が高くなるのである。これは数字として明白な歪みであり、異常なことである。そのことを、女性の構成員が指摘すると、現代なら男性の構成員もたいていの場合、たしかにそれはおかしいと同意し、表立って反対する人はほとんどいない。一見広く理解されているようであり、少しずつ改善してゆくようにみえる。しかしここには、けっこう根深い問題が潜んでいるのである。
まず、この男女比率の不均衡について、女性はそれを心の底から「異常だ!」と感じているのであるが、男性構成員の多くは「たしかに異常ですね」と合意はしても、心の底から「異常だ!」とは感じていないのである。そのことが言葉の端々に現れるので、問題提起した女性はしばしばイラ立つのだが、男性の方はというと、「ちゃんと認めて(あげて)るのに、どうして怒ってるんだろう?」と不審がるのである。理屈ではなく、「異常だ!」という直感を共有してほしい、という訴えを、男性は理解できないからである。(直感、つまりアイステシスの問題だから、これは美学である。)
なぜ理解できないのだろうか? それは、男性の頭が悪いからではなくて、そうしたことを理解できなくするように、構造的に条件付けられてきたからである。
近代以降の日本社会(日本には限らないが)において、男性が平均的な家庭で育ち、学校教育を受け、社会生活を営む中で、何らかの問題提起がなされた場合、それをした相手が何をどう感じたからそうしたのかを主観的に理解するよりも、むしろ出された問題を客観的に解決するために、はるかに多くの知的リソースを投入するように訓練される。学校や社会における競争に勝ち抜いてきた、いわゆる「デキる」男性ほど、そうした訓練を潜り抜けている。
だから多くの場合、女性が何か不満を述べて「分かった?」と聞くと男性は「うん、分かった」と答えはするものの、この「分かった」は、「君がどう感じていたのか分かった」という意味ではなくて、「君が不満を持っていることは分かった」という意味なのである。(こう書いても「え、それどこが違うの?」と思う男性もいるかもしれない。ぼくが書いている文章の読者には、まさかいないとは思うが‥‥。)
あるいは、こういう反応もある。組織における男女比率とは女性の人権の問題であり、そんな日常の下世話な男女の行き違いとは関係がない、というような。これは何を言っているかというと、人権問題には美学(つまり直感や主観性の領域)は関与しない、ということである。これは誤りだ。たしかにジェンダーの問題は人権問題だが、人権問題にすぎないわけではなく、本来ははるかに深い人類史的な起源に由来するものであり、それが近代的意識の中では人権問題という形をとって見えているだけなのである。
さて、この問題について具体的な対処を考えるとすればどうなるだろうか? とりあえずは、何らかの仕方で女性の比率を高めることしかない。いわゆる「アファーマティヴ・アクション」である。それは、基本的に正しいと思う。「そんなふうに無理して女性の比率を高めても、何の解決にもならない。社会全体が変化して自然に女性の比率が増えるようになるのが望ましい」と言う人もいるが、社会というのは放っておけば現状維持するだけなので、「自然に増えるようになる」ことなどありえない。
アファーマティヴ・アクション、つまり意図的に女性比率を増大させれば、それによって何らかの無理が出てくるのは当然である。でも、それでいいのである。なぜなら、アファーマティヴ・アクションというのは「解決」ではなく、それ自体が「問題提起」だからである。それを「解決」とみなしてしまったら、それは「ほら、これだけ女性を入れてあげたから、文句ないでしょ?」と言っているようなものであって、それは確かに数字の上では進歩しているようにみえるかもしれないが、本当は後退なのである。女性の委員が増えて、それで一件落着ではなく、むしろそこからすべてが始まるのである。
ようするにジェンダー・バランスの問題というのは、女性の問題であるよりも、はるかに男性にとって、より重要な問題なのである。管理・運営部門に女性が少ないことによって、組織は決定的な損失を蒙ってきた。そして男性自身も損をしてきた。その危機感の自覚を共有する必要があると思う。つまり、「虐げられてきたかわいそうな女性たちを救わねばならない」というような意識では、何も変わらないということである。そうではなく男性の方が、これまで自分がどんなにかわいそうな存在であったのかを自覚し、女性の参加によって自分を救うという希望を持つことが、決定的に重要なのである。