アフリカのガンビア出身の男が、神戸の神社で「ここには神様いない」と叫んで賽銭箱を蹴り落としたり、近くのお地蔵さんを壊したりしたらしい。これに対して、やっぱりイスラム教徒は唯一神アッラーしか認めないから、外国にいても異教の施設を破壊するんだ、なんて言っている人がいる。
それは違うね。この若造はたぶん、仕事上の失敗か失恋か知らんが、何かムシャクシャすることがあっただけなんだろう。本当に異教を破壊したいなら放火でもしそうなもんだが、そういうんじゃなく、ただの八つ当たりみたいな感じだからね。
でも、外国でこんなことしたら何が起こるかに考えが及ばないのは、本当に愚かである。まず、日本人の多くはガンビア共和国に馴染みがなく、ニュースではじめて聞いたという人も少なくないと思うが、この男が「ガンビア人」と報道されたことで、一般日本人のガンビアに対する印象を台無しにしている。自国に対して大きな損失をもたらしてしまった。
さらには、イスラム教に対するイメージも大きく傷つけた。せっかく、日本ではイスラム教に対するネガティブな先入観が欧米よりは比較的少なかったのに、日本人のイスラム観も悪くなるし、何よりも日本に住んでいるイスラム教徒の人たちにとって大迷惑だ。周囲の日本人から、お前も本当は神社なんて壊したいと思ってるのだろう?という眼で見られたら、どんな気持ちがするか。
つまりこういう行為は、日本の神道とか日本人に対する攻撃であるよりも、彼の国や全世界のイスラム教徒に対する攻撃になってしまうのである。自分自身が祖国を裏切っており、そしてイスラームも裏切っている。本当の愛国心も信仰もない。その点をよく反省してほしい。
さて賽銭箱を壊された神社の宮司さんや、参拝していた人たちはどう思っているだろうか。たぶん「えらいことしよる」「もう、何てことすんねん」とは感じているだろうが、激怒とか憎悪というような反応ではないだろう。「ここに神様がいない」ことなんて、みんな知ってるからである。それでも毎朝神社を綺麗に掃除して、お参りする。
日本にはイスラームと異なる宗教があるんじゃなくて、そもそも「信仰」というものが人々の思考や生活の中で果たしている機能が、根本的に違うのである。そのことを理解しないと、この国でストレスなく生きていくのは難しいと思う。
“There is no God here”
A man from Gambia, Africa, is said to have kicked over a money box a shrine in Kobe, and destroyed nearby Jizo statues, shouting "There is no God here!". In response, some people say that Muslims only accept Allah, the one and only God, so they destroy pagan facilities even when they are abroad.
That is not true. This young man probably just had a professional failure or a broken heart or whatever it is that pisses him off. If he really wanted to destroy paganism, he would have done some arson, but the case is s not like that, it's just like taking it out on him.
But it is really stupid of him not to think about what would happen if he does this in a foreign country. First of all, many Japanese are not familiar with the Republic of the Gambia and many of them may have heard about the country for the first time on the news. The fact that this man was reported as a 'Gambian' has spoiled the general Japanese impression of the Gambia. He has caused a great loss to his country.
Furthermore, it has also seriously damaged the image of Islam. Even though there were relatively fewer negative preconceptions about Islam in Japan than in the West, the Japanese people's view of Islam has also deteriorated. Above all, it is a great inconvenience for the Muslim people living in Japan. How would you feel if the Japanese people around you looked at you and said, "You really want to destroy the shrine, don't you?
In other words, these acts are not so much an attack on Japanese Shinto or the Japanese people as they are an attack on his country and all Muslims in the world. He himself has betrayed his country and he has betrayed Islam. He has no real patriotism or faith. I hope you will reflect on this point.
I wonder what the priest and worshippers at the shrine where the money box was broken are thinking. They probably feel that they have done a terrible thing, but their reaction is probably not one of anger or hatred. They already know that there is no God here. Even so, they clean the shrine every morning and pay their respects.
It is not that Japan has a religion different from Islam, but that the function that 'faith' plays in people's thinking and lives is fundamentally different. Without understanding this, it would be difficult to live in this country without stress.
6月中旬に、日本記号学会の大会が開催されます。ぼくは17日の午後、個人研究発表をします。研究発表要旨は以下の通り。
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仮面、覆面、猿轡──”Mask”の記号論
”Mask”という英語は三重に翻訳される。①「仮面」、②「覆面」、そして③「マスク」である。①「仮面」は西洋的な連想を伴っており、「仮面舞踏会」「鉄仮面」「仮面の騎士」といったイメージと結びつき、また『仮面の告白』(三島由紀夫)のような文学的比喩を導く。②「覆面」は特定の目的のために正体を隠すという機能に重点が置かれ、「覆面レスラー」や「覆面パトカー」、さらには公正性が要求される審査などにおいて審査する/される者の名前や所属を隠すことに関して、この語が参照されることがある。③「マスク」は日本語としては医療用あるいは作業用マスクを主に意味し、その役割は隠すことよりも遮断すること、すなわち唾液の飛散を防いだり、粉塵や花粉などの有害物質の吸引を抑制することにある。これらについて順を追って検討してみたい。
①「仮面」とは単なる顔の覆いではなく、むしろもう一つの顔である。古代ローマにおいて役者が頭に被るものが仮面(persona)であり、それが英語”person”の語源であることは周知の如くである。仮面は結果としてその中にある顔を隠すが、しかし隠すことが主たる目的ではなく、内部の存在を仮面の表す別な存在へと変容させる働きが重要である。それはVtuber(バーチャルYouTuber)において「中の人」がネット上のキャラクター(役割、ペルソナ)と混同され、最終的には区別がつかなくなる状況とも似ている。仮面にはいわば、変容へのドライブがプリセットされているのである。我々はまた、仮面の下に何があるかを見たいという衝動に抵抗できないと同時に、仮面の下には本当は何もないのではという不安からも逃れられない。ポーの「赤死病の仮面」(1842年)がもたらす恐怖のクライマックスは、仮面の下には誰もいなかったという点にある。つまり仮面とは最初から疫病(赤い死)そのものであった──そもそも「仮面」など存在しなかった──ということでもある。
②「覆面」とは正体を隠すための手段であり、したがってこの場合は、覆面の下に何もないというようなことはあり得ない。とはいえ物語的想像力の中に登場する覆面は、必ずしもただ隠すための手段に限られることはなく、覆面をした人物がキャラクター化し、それによって仮面的な属性を引き寄せることも少なくない。覆面と仮面とはクリアに切り分けることはできず、オーバーラップしている。覆面レスラーはそれが誰かは同定できないとしても、覆面レスラーとして特定の名前で同定される。物故した落語家桂枝雀の創作した「覆面パト」についての小話は、覆面が隠蔽と開示とのアンビバレントな狭間にあることを不思議な間合いで表現している点で興味深い。とはいえ覆面は、外そうと思えば外すことのできる何かであり、またいつか外されることを含意している。そこには、仮面のように内部と表層とが行き来し融合するようなダイナミズムは潜在していない。
③「マスク」の主要な機能は先述したように遮断にあるが、マスクも顔の一部を覆うものである以上、覆面と重なる機能も持つ。マスクをすることで私たちは自分の顔が同定されにくくなり、いわば半分アノニマスな存在となることができる。マスクをすることが社会空間において防衛的な働きを持つことは明白であり、そこからマスクに依存する傾向も生じてくる。マスクの実用的な機能は主として呼吸に伴う物質のやり取りを抑制する点にあるが、より象徴的な機能は「私は発話しない」ことの表明である。三猿の「言わざる」は「人の過を言わず」という教訓であるが、パンデミック状況において人々が依存してきたマスクにおいては、感染防止という合理的な理由よりもむしろ同調性の表明、つまり「私は何も言わない、方針に従っており、イノセントである」ことを示す象徴的表現として機能してきた。
本発表ではいくつかの例を引きながら、Maskの持つ意味や機能を検討し、Maskと権力との関係についても考察してみたい。
ひさしぶりにブログを書いたので、いくつか反応もあった。共感するというのも多かった一方で、反論というほどでもないが、「人工知能でできることはどんどんやればいい」と言うけど、そのことによって仕事を失う人が出てくることを思うと素直に肯定できない、というような意見もあった。
分かるけどそれは結局のところ、後ろ向きの考えにしかならないと思うな。たしかに何らかの規制をかけて人間がこれまでやっていた仕事を護ることは、一時的、部分的には可能かもしれない。大学で、学生のレポートにChatGPTの使用を禁止する(できるかどうかは別として)ことによって、これまでのような成績評価で「仕事」をしてきた教員を守る、というような。
でもそんなことは、大局的には意味がない。産業革命以来過去二世紀の間、生産活動に次々に新しいテクノロジーが投入されて、従来の仕事に従事していた多くの人たちが失業してきたけど、その趨勢を止めることはできなかった。もっと最近、現在の人工知能以前の1990年代以降だって、パソコンが業務に導入されてやはり仕事を失う人たちがたくさん出てきたけれど、基本的にはどうしようもなかった。
仮に何か法律で護ってもらったとしても、自分の仕事が機械でも代替可能であることが分かった瞬間、人間はその仕事に対する誇りを奪われてしまうよね。やる気がなくなる。だって、お前なんか本当は要らないんだけど、特別に「保護」してやらせてあげる、なんて状況下に置かれたたら、人は自尊心を保てないよ。これが本当は、いちばん本質的なことだと思う。
そういう意味で、人工知能でできることは基本的に何でもさせればいいし、人間が「できる」ことは、まもなくどんなことでも機械はできるようになる、と考えた方がいい。それと同時に、そんなことで人間が存在する意味はカケラほども傷つかない、ということについても考えを共有しなければいけない。そうしないと「シンギュラリティ」とか言っているイカサマ師たちに騙されるからね。
そこでもう一つの反応は、何かが「できる」こと以外に人間が存在する価値をどのように理解すればいいのか?というものだった。これは重要な問いだ。人間は他の動物と違ってこんなことができるとか、機械と違ってこれだけは人間だけしかできないとか、およそそんな感じのセルフ・アイデンティティの形成が、これまでの近代ヒューマニズムを成り立たせてきたからね。
ぼくはこの「できる」、つまり能力中心の人間観から決別するにはどうしたらいいのかを考えている。と言っても、「できなくてもいいんだ」とか「人間は存在すること自体に価値がある」というような言い方では、間違ってるわけではないんだけど、やっぱり後ろ向きで、そんなんでは元気が出ないよなあ、と思う。だから言葉そのものを、ある意味根本から刷新しなければいけないのである。
なんだかんだ言っても、私たちは近代的な価値観を背負った言葉遣い(進歩しなければいけない、努力しなければいけない、etc.)に骨の髄まで浸透されていて、と同時にそれに対する補償としての存在することそのものの価値(進歩とか努力とかどうでもよくて、ただ生きること自体に意味がある、みたいな)にも影響され、それら両極端のセットの中で動いている、と思うからである。
「哲学とアートのための12の対話」では、次回は「人新世」がテーマなのだけど、8月の回は「(AIの)シンギュラリティについて考えてみよう」ということになっている。室井さんともこのトピックについてはこれまで何度もやりとりしてきたので、人工知能について今どんなふうに語ることが哲学的な思考でありうるのだろうか?ということを、その時には語ってみたい。
しばらくこのブログを書かなかったのは、特に理由があるわけではない。忘れていたわけでもないのだが、少し間が空くと、何となく書きにくくなる。動画の配信の場合と同じである。そういえばこの数ヶ月、どちらかというと動画の方に気が向いていて、書くことがちょっとおろそかになっていた。それはたしかだ。
室井尚さんが3月21日に亡くなったこと、その前後のことや、彼と計画していた「哲学とアートのための12の対話」についても、ここではまだ書かなかった。学会誌に訃報や追悼のテキストを書いたり、「対話」については彼の亡くなる9日前の3月12日に銀閣寺でプレトークを行い、その記録は動画でもテキストでも公開しているのだが、そうした作業に追われてこのブログでの投稿に戻ってくる余裕がなかったかもしれない。ちなみにそれらについての情報は以下↓にあります。
https://mxy.kosugiando.art/?fbclid=IwAR21PWLnN8xOSeKVSw3IoMsUOQo7GQH4rNye5SI3u3EV90fE-_15bAp9AaY
また、4月30日には前衆議院議員の安藤裕さんが主催する「日本の未来を考える勉強会」に出演して、「資本主義の美学とは何か?」という話をした。そのことも動画では言及したが、文章化することをしなかった。
それら諸々についてはまた話をするとして、今回久しぶりにブログに書く気になったのは、世間を騒がせているChatGPTのことである。これはいずれ上の「哲学とアートのための12の対話」でも扱う予定の話題なのだが、いま書いているきっかけは、私が非常勤講師として授業を担当している複数の大学から、ChatGPTの「教育活用」について、注意喚起というか、指針のような連絡が来ていたからである。
それは、だいたいのところをまとめてみると以下のようなものである(「生成系人工知能」とあるのはほとんどChatGPTのことだと読み替えていい)。
レポートや課題における生成系人工知能の利用については、
・生成系人工知能を使ったら、何を使ったか、使用の範囲などを明記せよ。そうしないと、不正行為とみなす。
・生成系人工知能には誤った情報が含まれている場合があるので、どの程度正しいか、誤りはないかについて確認せよ。
・生成系人工知能で出力された内容には、著作権を侵害している可能性があるので注意せよ。
大体こんな感じの注意喚起なんだが、率直に言って「正気か?」と思った。
ChatGPTを使ってレポート提出する学生が、その使用範囲を明記したり、出力内容の誤りや著作権侵害の可能性をチェックしたりする気や能力があるなら、そもそも人工知能なんて使わないよね。どうしてこんな「不正行為防止」みたいな基準で対処できると思ってしまうのだろう? これまでの大学教育の慣習が根本から掘り崩されているということに、どうして気がつかないのだろうか?
大学は、そろそろハラをくくるべきなんじゃないかな。少子化による経営難とか、市場原理の導入とか、学長の独裁制とか、研究活動の管理強化とかいうナマナマしい事柄とは異なった、そもそも教育・知識形成の根幹に関わるレベルにおいて、人工知能あるいは人工知能的なるもの(つまり人工知能のように物事を考える人間たち)によって、これまで「大学」と呼ばれてきた制度は、根底から掘り崩されつつあるのである。
そのことについて考えるのは、とても重要なことだと思う。だから、ChatGPTによる大学教育への侵略は、そのことを考える絶好の機会を与えてくれると思っている。人工知能によって置き換えられるような知的操作は、すべて置き換えるべきだ。そんなことは人類にとって危機でも何でもない。それを危機だと思うとすれば、その人はこれまで人工知能のやるようなことしかやってこなかったからだ。人間は人工知能としてはとても能力は低いのだから、負けるのはあたりまえなのである。
また人工知能にはできないこと、人間にしかできないことを探したりそれにすがったりするヒューマニズムも、今やまったく無効なのである。機械は人間が「できる」ことは、基本的に何でもできると考えるべきだ。しかしそんなことは人間にとって脅威ではない。人間の存在する意味を、こうした何かが「できる=能力」に求める考え方が、根本的に間違っているからである。人工知能とは要するに「知は力なり」、つまり知を能力として捉える思想が、行き着くところまで行き着いて形を成した存在なのだ。
ChatGPT脅威論は、結局のところ「フランケンシュタイン・コンプレックス」(人工物がいつか人類を凌駕するという、ユダヤ・キリスト教的幻想)なのである。そんなことを知りもしない大学教育の現場をChatGPTが脅かしつつある今という時代は、人工知能(的なるもの)について、フランケンシュタイン的物語とは異なる思考、知識の本性についての哲学的考察を始めるための、絶好の機会なのである。
Artificial intelligence is destroying universities
What has inspired me to blog this time, after a long time, is the ChatGPT that is making waves in the world. This is a topic that I plan to address in the '12 Dialogues for Philosophy and Art,' but the reason I am writing now is that several universities where I teach as a part-time lecturer have contacted me with a warning, or rather a set of guidelines, regarding the 'educational use' of ChatGPT.
It is roughly summarised as follows ('generative artificial intelligence' can almost always be read as referring to ChatGPT).
For the use of generative artificial intelligence in reports and assignments,
- If you use generative artificial intelligence, state what you used and the extent of the use. Failure to do so will be regarded as cheating.
- The use of generative artificial intelligence may contain incorrect information, so check the extent to which it is correct and free from errors.
- The output of the generative artificial intelligence may infringe copyright.
The warning is roughly like this, but frankly I thought, "Are you out of your mind?"
If students submitting reports using ChatGPT were willing and able to clearly state the scope of use and check for errors in the output content and the possibility of copyright infringement, they wouldn't be using artificial intelligence in the first place. Why do they think they can cope with such 'anti-cheating' standards? Why can't they realize that the conventional practices of university education are being fundamentally dug out of the ground?
Maybe it's time for universities to get their act together. Not in terms of management difficulties due to the declining birth rate, the introduction of market principles, the dictatorship of the university president, or the tightening control over research activities, but at the level of the very foundations of education and knowledge formation, by artificial intelligence or artificial intelligence-like things (i.e. people who think like artificial intelligence), The system that has been called 'university' is being undermined from the bottom up.
I think it is very important to think about that. So I think the invasion of university education by ChatGPT gives us a great opportunity to think about that. Any intellectual operations that could be replaced by artificial intelligence should be replaced. That is not a crisis or a crisis for humanity. If one thinks it is a crisis, it is because that person has so far only done what artificial intelligence would do. It is only natural that humans should lose, because they are not very capable as artificial intelligence.
Also, humanism, the search for and reliance on what artificial intelligence cannot do and what only humans can do, is now completely invalid. We should assume that machines can do basically anything that humans 'can' do. But such things are not a threat to humans. This is because the idea that the meaning of human existence lies in the ability to do these things is fundamentally wrong. Artificial intelligence is, in essence, the result of the idea that 'knowledge is power', i.e. that knowledge is a capability, which has reached the end of the road and taken shape.
The ChatGPT threat argument is ultimately a "Frankenstein Complex" (a Judeo-Christian fantasy that artifacts will one day surpass mankind). The time when ChatGPT is threatening the university education scene, which does not even know it, is the perfect opportunity to start thinking about artificial intelligence, to think differently from the Frankensteinian narrative, and to begin a philosophical reflection on the nature of knowledge.