6月中旬に、日本記号学会の大会が開催されます。ぼくは17日の午後、個人研究発表をします。研究発表要旨は以下の通り。
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仮面、覆面、猿轡──”Mask”の記号論
”Mask”という英語は三重に翻訳される。①「仮面」、②「覆面」、そして③「マスク」である。①「仮面」は西洋的な連想を伴っており、「仮面舞踏会」「鉄仮面」「仮面の騎士」といったイメージと結びつき、また『仮面の告白』(三島由紀夫)のような文学的比喩を導く。②「覆面」は特定の目的のために正体を隠すという機能に重点が置かれ、「覆面レスラー」や「覆面パトカー」、さらには公正性が要求される審査などにおいて審査する/される者の名前や所属を隠すことに関して、この語が参照されることがある。③「マスク」は日本語としては医療用あるいは作業用マスクを主に意味し、その役割は隠すことよりも遮断すること、すなわち唾液の飛散を防いだり、粉塵や花粉などの有害物質の吸引を抑制することにある。これらについて順を追って検討してみたい。
①「仮面」とは単なる顔の覆いではなく、むしろもう一つの顔である。古代ローマにおいて役者が頭に被るものが仮面(persona)であり、それが英語”person”の語源であることは周知の如くである。仮面は結果としてその中にある顔を隠すが、しかし隠すことが主たる目的ではなく、内部の存在を仮面の表す別な存在へと変容させる働きが重要である。それはVtuber(バーチャルYouTuber)において「中の人」がネット上のキャラクター(役割、ペルソナ)と混同され、最終的には区別がつかなくなる状況とも似ている。仮面にはいわば、変容へのドライブがプリセットされているのである。我々はまた、仮面の下に何があるかを見たいという衝動に抵抗できないと同時に、仮面の下には本当は何もないのではという不安からも逃れられない。ポーの「赤死病の仮面」(1842年)がもたらす恐怖のクライマックスは、仮面の下には誰もいなかったという点にある。つまり仮面とは最初から疫病(赤い死)そのものであった──そもそも「仮面」など存在しなかった──ということでもある。
②「覆面」とは正体を隠すための手段であり、したがってこの場合は、覆面の下に何もないというようなことはあり得ない。とはいえ物語的想像力の中に登場する覆面は、必ずしもただ隠すための手段に限られることはなく、覆面をした人物がキャラクター化し、それによって仮面的な属性を引き寄せることも少なくない。覆面と仮面とはクリアに切り分けることはできず、オーバーラップしている。覆面レスラーはそれが誰かは同定できないとしても、覆面レスラーとして特定の名前で同定される。物故した落語家桂枝雀の創作した「覆面パト」についての小話は、覆面が隠蔽と開示とのアンビバレントな狭間にあることを不思議な間合いで表現している点で興味深い。とはいえ覆面は、外そうと思えば外すことのできる何かであり、またいつか外されることを含意している。そこには、仮面のように内部と表層とが行き来し融合するようなダイナミズムは潜在していない。
③「マスク」の主要な機能は先述したように遮断にあるが、マスクも顔の一部を覆うものである以上、覆面と重なる機能も持つ。マスクをすることで私たちは自分の顔が同定されにくくなり、いわば半分アノニマスな存在となることができる。マスクをすることが社会空間において防衛的な働きを持つことは明白であり、そこからマスクに依存する傾向も生じてくる。マスクの実用的な機能は主として呼吸に伴う物質のやり取りを抑制する点にあるが、より象徴的な機能は「私は発話しない」ことの表明である。三猿の「言わざる」は「人の過を言わず」という教訓であるが、パンデミック状況において人々が依存してきたマスクにおいては、感染防止という合理的な理由よりもむしろ同調性の表明、つまり「私は何も言わない、方針に従っており、イノセントである」ことを示す象徴的表現として機能してきた。
本発表ではいくつかの例を引きながら、Maskの持つ意味や機能を検討し、Maskと権力との関係についても考察してみたい。