ひさしぶりにブログを書いたので、いくつか反応もあった。共感するというのも多かった一方で、反論というほどでもないが、「人工知能でできることはどんどんやればいい」と言うけど、そのことによって仕事を失う人が出てくることを思うと素直に肯定できない、というような意見もあった。
分かるけどそれは結局のところ、後ろ向きの考えにしかならないと思うな。たしかに何らかの規制をかけて人間がこれまでやっていた仕事を護ることは、一時的、部分的には可能かもしれない。大学で、学生のレポートにChatGPTの使用を禁止する(できるかどうかは別として)ことによって、これまでのような成績評価で「仕事」をしてきた教員を守る、というような。
でもそんなことは、大局的には意味がない。産業革命以来過去二世紀の間、生産活動に次々に新しいテクノロジーが投入されて、従来の仕事に従事していた多くの人たちが失業してきたけど、その趨勢を止めることはできなかった。もっと最近、現在の人工知能以前の1990年代以降だって、パソコンが業務に導入されてやはり仕事を失う人たちがたくさん出てきたけれど、基本的にはどうしようもなかった。
仮に何か法律で護ってもらったとしても、自分の仕事が機械でも代替可能であることが分かった瞬間、人間はその仕事に対する誇りを奪われてしまうよね。やる気がなくなる。だって、お前なんか本当は要らないんだけど、特別に「保護」してやらせてあげる、なんて状況下に置かれたたら、人は自尊心を保てないよ。これが本当は、いちばん本質的なことだと思う。
そういう意味で、人工知能でできることは基本的に何でもさせればいいし、人間が「できる」ことは、まもなくどんなことでも機械はできるようになる、と考えた方がいい。それと同時に、そんなことで人間が存在する意味はカケラほども傷つかない、ということについても考えを共有しなければいけない。そうしないと「シンギュラリティ」とか言っているイカサマ師たちに騙されるからね。
そこでもう一つの反応は、何かが「できる」こと以外に人間が存在する価値をどのように理解すればいいのか?というものだった。これは重要な問いだ。人間は他の動物と違ってこんなことができるとか、機械と違ってこれだけは人間だけしかできないとか、およそそんな感じのセルフ・アイデンティティの形成が、これまでの近代ヒューマニズムを成り立たせてきたからね。
ぼくはこの「できる」、つまり能力中心の人間観から決別するにはどうしたらいいのかを考えている。と言っても、「できなくてもいいんだ」とか「人間は存在すること自体に価値がある」というような言い方では、間違ってるわけではないんだけど、やっぱり後ろ向きで、そんなんでは元気が出ないよなあ、と思う。だから言葉そのものを、ある意味根本から刷新しなければいけないのである。
なんだかんだ言っても、私たちは近代的な価値観を背負った言葉遣い(進歩しなければいけない、努力しなければいけない、etc.)に骨の髄まで浸透されていて、と同時にそれに対する補償としての存在することそのものの価値(進歩とか努力とかどうでもよくて、ただ生きること自体に意味がある、みたいな)にも影響され、それら両極端のセットの中で動いている、と思うからである。
「哲学とアートのための12の対話」では、次回は「人新世」がテーマなのだけど、8月の回は「(AIの)シンギュラリティについて考えてみよう」ということになっている。室井さんともこのトピックについてはこれまで何度もやりとりしてきたので、人工知能について今どんなふうに語ることが哲学的な思考でありうるのだろうか?ということを、その時には語ってみたい。