京都精華大学の大学院でこの数年行ってきた講義「日本の美学」が、オンラインになってしまった。それで、これまでとは違うやり方を考えてみた。
これまでは、古代から現代に至る日本美学のキーワードや、それらの歴史的背景を、わりと好き勝手というか、思いつくままに説明したり批評したりするような講義をしてきた。それはそれで楽しかったのだが、オンラインでは、そのままやるのは難しいなと感じた。
何が難しいかというと、オンラインの講義では身体が見えない。見えるのはデータや資料の存在だけである。そうした資料体を通して知識の伝達を旨とするような講義なら、あまり不都合はないのだろうとは思う。むしろオンラインの方が効率的なのかもしれない。
しかしぼくの講義はそういうタイプではない。身体の臨在が何よりも重要な条件であり、それを離れた知識の伝達は目標としていない。だから今のような状況で、これまでの講義をそのままオンラインにしても何も面白くない。もう講義したりする活動自体から退こうかと本気で思った。けれども悲観的に考えても仕方がないので、何か別な方法を考えてみようとした。
それで今回は何か適当なテキストを選んで、それを共有画面に表示して詳細に読んでいくことを通じて、これまでと似た状況を作り出せないかなと思った。テキストは受講者が見ているスマホやパソコンの画面にそのまま表示されるので、それがある意味、身体の臨在の代わりになるのではないかと思った。
そのためにどんなテキストを選ぶべきかと考えた時、近代以前の歴史的文献は、それだけで距離が生まれるし、古典文学の勉強みたいな感じになってしまうので、あんまり気が進まなかった。
それで辿り着いたソリューションは、谷崎潤一郎の「蘆刈」とい小説を取り上げてみることだった。ぼくは特に谷崎潤一郎の愛読者ではない。けれどもこの小説の読解を通して、日本の美学の基本的な概念を考えていくことことができるのではないかと思った。オンラインの画面で共有されたテキストを一字一句丁寧に読んで行くと、ある種身体の臨在に近い雰囲気がほんの少しだけ現れる。
この作品は、芦刈伝説や能の「蘆刈」、そして京都の近代史における「巨椋池」のことが登場する。ぼくは京都人とはいっても宇治や伏見で育ったので、もちろん昭和16年に消滅した巨椋池を見たことはないけど、その池の存在が自分にとって古い京都のイメージを支えていたことを、この作品を再読して改めて確認した。
この巨椋池が干拓されて無くなった時、古い京都が消滅したのではないかな。そういう気がする。時代的には、ぼくの父が思春期の頃だ。
谷崎と同じようにその場所を確かめてみたくて、先週、水無瀬に行ってみた。
この講義はzoomで行っており、記録も撮っている。自分のオンライン講義の録画を観て、まあ、こういうのもアリかなと思った。見たいという何人かの人には見せたが、公開はしていない。今週は後半の、源氏物語や近松の作品を思わせるような、非現実の感情の王国というか、冷静に考えるとあり得ないがテキストの世界で確固たるリアリティを持つ、情念の渦のような場面を解説してみます。