「退き際が分からない」
なんだかんだで、zoomを毎日のように使う。たしかに、普通の意味では便利である。でも、実空間の会合で気にしなかったことを意識させられる側面があり、それは、戸惑うと同時に、面白い。そのひとつが「退け時」である。
実空間の場合、会議が終わったら「では失礼します」と言ってドアを開けて帰る。その人が席から立ち、ドアの方に行くのを見て、他の参加者は皆「この人は今帰るんだな」と認識を共有し、ではさようなら、といって見送ることができる。
だがオンライン会議では、これが分からない。「ではまた」と挨拶はするが、他の人たちの顔がまだ画面にあるのに、どのタイミングで「退出」ボタンを押すべきかが分からないのである。まだ多くの人がログインしている状態で自分だけが退出すると、何だか早く帰りたかったみたいも見えるし、かといって会議が終わってるのにダラダラ居残っているのも意味がないし。
大袈裟に言えば、これもテクノロジーが人間の自然な「退き際」を奪ってしまう、身近な例ではないかと思う。
より重大な例は、人生からの「退き際」である。近代医学は、感染症その他によって、人がまだ死ぬべきではない若さで死ぬ原因を取り除くことに、多大な成功をおさめてきた。それによって万能感を持ってしまった医学は、20世紀の終わりに差しかかって、決定的な問いを突き付けられた。
人は、いつ人生から去るべきなのか?
破傷風、産褥熱、肺炎、結核、天然痘など、本来死ななくてもよい年で死ぬたくさんの人々を救ってきた近代医学は、その業績で有頂天になってしまったが、それでは人間はそもそも、いつどのように死ぬべきなのか、ということについて、なんら答えを持っていなかったのである。
それに対して現代の医学内部から出てくる答えは、いや、できるだけ延命させるにはこういう手段もありますけど‥‥といった、普通に生きている人のまともな人生観からは到底納得できないような、戯言しかない。あのー、でもとにかく死ぬよりは生きていた方がいいでしょ、皆さん、というような。
アホか。
今の状況は、そういうことが明らかになりつつあるのだと思う。
それでもまだ、多くの人は「とにかく、死ぬよりは生きていたほうがいいのだから」という「医学教」の御言葉によって催眠術をかけられ、とにかくリスクは減らした方がいいというその教条を信じて、この暑いのに、人通りもまばらな道を、一人でマスクをかけて歩いているのである。
でもぼくは、何らかの指導的立場にある人たちがこんな行動を煽るのは「アホか」と思うけれども、恐怖心から律儀に行動している人々のことをバカだとは思わない。ストレイ・シープ(迷える羊)だと思う。自分自身もその一人かもしれないからである。
そういうわけで、とにかく退き際が分からない。それは、このブログ講義もそうなのだ。
もう7月も下旬である。この講義は回数としては今度で10回目だが、雑談はこれで14回もアップロードしている。字数は10万字を越え、新書1冊分くらいに達している。
そろそろ退け時ではないだろうか。明後日の水曜くらいで。
でも、やろうと思えばいくらでもできるような気もするし、そもそも、最近あまり書いていなかったこのブログ自体を公開の講義に変えてしまっても、いいと言えばいいのである。
とにかく退き際が分からない。困った。