「美学特殊講義1」第10回(最終回)
「人生のアウトソーシング」
梅雨も明け、すっかり夏になりましたね。毎日蒸し暑く天候も不順でしたが、ご無事でお過ごしですか。さて、今日は7月22日。この回をもって、2020年度前期「美学特殊講義1」の最終講とします。
先ほど、関西学院大学の教務係からメールが来ました。後期もこれと同じような「美学特殊講義3」というのがあるのですが、大学院の講義は10月の状況によっては通常の対面形式が可能になるかもしれません。そうなることを祈っていますが、もし後期もオンラインということになったら、どうするか。それはまだ考えていません。
とにかく、前期の講義はこれで終了とするので、登録している大学院生の皆さんは、本日の講義に関するレポートを、来週の水曜日までに送ってください。それによって成績評価をします。
講義は10週行いました(その内一回は休講というか、より正確には「これは休講ではない」でしたが)。通常の基準は半期14週+試験でした。そこからすると10回は少ないように見えますが、雑談は14回あり、それを加えると24回。雑談2回で講義1個分としても、17回だから十分でしょう。
10月以降の予定は、何もかもまだ分からないですね。今年度の海外出張は原則中止しました。まだ外国での学会や研究会には中止が決定されていないものもあるのですが、直前に予定が変わったりするのは混乱するし、そもそもこんな状況で行ってもあまり楽しくない。世間では、昔勉強したBASICのコマンドみたいな「GOTO」とか何とかいうキャンペーンもあるようですが、観光の支援というのは分かるけど、いろいろ制限があるなかで旅行しても楽しくないですね。
そもそも旅行というものは、観光消費を増やすためにするのではなく、楽しいから行くのであって、経済効果はその結果として生じるだけです。だから、経済活動のため、消費のために旅行せよと要請するのはまったくおかしい。順序が反対です。
10月に広島大学で開催する予定だった美学会全国大会も、話し合った結果オンラインの開催にしました。これもぼくにとっては同じ理由からで、ウィルス感染のリスクを考慮したというよりも、無理して現地開催しても楽しくないからです。研究交流というのも、学術文化の振興のために行うのではなく、面白いからやるのです。学術的な意味はその副産物として生じるだけです。
こうした、ものごとの基本的な順番が、ことごとく逆になっていると思うのです。
先ほどの、授業回数に関することもそうです。半期なら授業は14回か15回という基準は確かにあります。でも講義というのは、話すべき内容があるからやるのです。そしてそれが、結果として15回くらいになった、というだけです。だから10回で終わってもいいのです。回数が先にあるのではない。回数を先に決めてしまうと、内容はそれに従属し、こんなもんでいいか、という程度のものになってしまいます。
こういうのは単なる「数合わせ」で、本当にくだらないことなのですが、実は現代の大学に課されている研究教育活動の「評価」って、こんなのばかりなのです。論文、学会発表の数がいくつだとか、海外との共同研究はいくつだとか。とにかく「数」を揃えないといけない。こんなの論文にカウントできるかなぁ‥‥というようなのでも、評価担当の先生に出すと、ありがとうございます!と喜んでくれます。中身はまったく問われない(興味ない)わけです。
研究とは本来楽しいものであって、止むに止まれずしてしまうものです。そしてある程度まとまった内容ができたら、論文として書いてみたくなる。それがたまたま蓄積していったものが、業績です。こんなことを言うと、先生、今はそんな牧歌的な時代じゃないですよ、キレイ事言ってたらいつまで経っても就職できません、と若い人たちに諌められます。
あのね、ぼく自身だって若い時は就職するためにそれなりに研究業績の数を気にしてたし、あんまり気が乗らないテーマでも書く機会をもらったら少々無理して書いたりしたんだよ。でもそうしながらも、本当は研究というのはそういうものではない、と思ってもいた。研究者になるために研究するのではなくて、研究してたら研究者になってしまったというのが正しい。でも自分はそうじゃないから、本当はこれではいけないなと考えていた。
「キレイ事」って言うけど、そもそも学問(少なくとも人文学)はキレイ事なんだよ。そしてキレイ事は、世界にとって必要だからあるのです。みんなが現実に即応した戦略家ばかりになったら、世の中全体がシステムとして不安定になり弱体化するので、能天気な学問の世界も必要なわけです。だから研究を志す人は、もしも時代が反対の方向を向いてたら、それは時代の方が間違ってると言えなければならない。
まあ、研究者を取り巻く今の社会環境がどんなに酷薄なものかはぼくも知っているので、それと格闘している若い人たちを非難するつもりは全然なく、もちろん応援したいのです。ただ、身過ぎ世過ぎのためには汚い手を使ってもいいから、魂だけは売り渡さないでね、と思っているだけです。
とにかく、今の世の中はすべてが本末転倒で、手段が目的になり、その結果、目的は完全に見失われている。もしも今のコロナの状況がそのことに気づかせてくれるきっかけになるなら、それは少なくとも希望の持てる、ポジティブな側面かもしれないと思います。
前にもお知らせしたように、今週末の7月25日には「メディア変容と新型コロナウィルス」( https://y-labo.wixsite.com/home/open2020-02)という公開セミナーで話をします。これは対策をとった上で、対面で行われます。そのために「メディアにとってコロナとは何か?」という話を用意しました。先日の美学会のようにオンラインで配信するという予定はありませんが、ぼくの話の内容はいずれ、ここかあるいは他の場所で公開したいと思っています。ここでは、そのトピックの中からひとつだけ紹介したいと考えます。先ほどから話しいる「順番が逆になっている世界」というテーマに関わる話題だからです。
それは「人生のアウトソーシング」という話題です。
自分の仕事やスケジュール調整などの日々の作業をバーチャル・アシスタントに委託することを「人生(生活)のアウトソーシング」と呼んでいる人もいるようですが、ここではもう少し重大なことを言おうとしています。つまり「生」、生まれたこと、生きることそれ自体の意味や目的、そしてそこからの退き際つまり「死」についてです。「生死のアウトソーシング」と言ってもいいかもしれません。
まず私たちにとって、自分が生まれたこと自体には、意味がありません。何か目的があって計画して生まれてきたわけではないですからね。親はもしかすると計画して自分を産んだのかもしれないが、それは親の人生に属することであって、自分はそんなこと知らないです。
気がついたら生まれていた、ということです。だから、子供が物心ついてはじめて直面するのは、この世界に自分が生まれ生きていること自体の無意味さ、無根拠性です。もちろん子供はそういう言葉や概念によって自覚しているわけではありませんが、私たちはそのことを自分で引き受け、なんとかそれに慣れていかなければいけないのです。
ほんの百年くらい前まで、人間は貧富や階層の差による違いはあったものの、多かれ少なかれ死に囲まれながら生きていました。飢餓や戦争などの事態がなくても、死産や乳幼児の死亡率は高く、また外傷や感染症によって命を落とす危険もずっと大きかった。自分が生きていることは当たり前ではなかったのです。ということは逆に言えば、ただ生きていること、無意味に無根拠に生きていることそれ自体が、稀有なこと、重要なことだったと言えます。
近代医学の発達によって、乳幼児の死亡率も、怪我や病気によって死ぬ危険も少なくなります。核家族化によって子供の数も減少し、また子供にとっては祖父母と同居することがないために、老衰や死を身近なものとして体験する機会が減ります。そしてその別居しているお爺ちゃんお婆ちゃんも、自力で生活できなくなるとたいていは施設に収容され、家族ではなく介護の専門家によって世話され、看取られます。亡くなった後も葬儀から埋葬まで、専門業者に委託されます。
つまり人生の基本事実としての「老い」も「死」も、私たちの日常生活から隔離され、それらは誰にとっても自分の問題であるにもかかわらず、医療や介護や葬儀の専門家による「仕事」として委ねられているのです。
そのことがいけないと言いたいのではありません。老いや死のアウトソーシングがなければ、現代の職業生活を維持することは不可能です。ただ、ここで多くの人が忘れているのは、「死」が日常生活から隔離されてゆくと、「生」の意味そのものがなし崩しになってゆくということです。
別な言い方をするなら、「生」が元々持っている無意味さ、無根拠性が、現代社会においては、剥き出しになっているということです。これは「野蛮」です。社会が「安心・安全な」護られたものになってゆく反面で、人生の中心にはこの「野蛮」が肥大してゆくのです。
すると何が起こるかというと、私たちは人生の意味そのものを、自分で決めるのではなく、アウトソーシングして誰か他の人に決めてもらおうとし始めます。それを社会に委託すると、人生の意味とは「幸福」や「成功」だという答えが返ってきます。
「幸福」といっても、自分がそのように納得する状態のことではなく、「リア充」だったり、金持ちだったり、モテたり、キラキラしたり、人に羨まれたり‥‥つまりは「外部評価」ですね。
また仕事、研究、スポーツ、芸術表現、商売、ビジネス、政治等々、人間のどんな活動にしても、そこには当然、それ自体が楽しかったり、他人のためになったり、自分との闘いであったり、様々な側面があるはずなのですが、その意味を社会にアウトソーシングしてしまうと、「成功」という側面だけが、異常にクローズアップされていきます。つまり、評価される、賞やメダルを取る、有名になる、金儲けをする、政権を維持する、云々といったことが、その活動の唯一の意味であり目的であるかのような錯覚が、支配的になるということです。
また、人生の意味を医療に委託すると「健康で長生き」というような答えが返ってきます。そのためにタバコも美食も諦め、身体に悪いことはできるだけしない、リスクを最小限に保ち、生活のすべてを「生存」という目的のために捧げるべきである。こうした考え方は、一見理屈が通っているように見えるかもしれませんが、実はその中心には狂気があります。
誤解を避けるために言添えるなら、ぼくは人が健康で長寿を保つのは良いことだと思っています。けれどもそれは、仲間の人々と共に、楽しく人生を過ごした結果として生じるべきことです。生存のために人生を犠牲にするのは倒錯です。順番が、全く逆なのです。
コロナの状況は、もちろんウィルスという存在がきっかけになっているのですが、社会的状況として現れている「コロナ」とは、むしろ現代の私たち自身の世界観や人生観において、意識されることのなかったその問題点を映し出すものだと思っています。「人生のアウトソーシング」というのは、そうした問題点のひとつに名前を与えたものです。