「美学特殊講義1」雑談13
「子供に道徳を教える」
先日友人の子供(小学4年生)が、今学校で習っている道徳の教科書を朗読してくれたので、そこにどんなことが書かれているのか、ぼくは初めて知った。その子は、ぼくが「道徳」ってどんなこと習ってるの? と尋ねたので、元気に読んで聞かせてくれただけなのだが、聞いていて正直、ちょっとツラい気持ちになってしまったことも確かである。
内容は「イジリ」と「イジメ」について。授業で間違った答えをした生徒をみんなが笑った。すると誰かが「笑っていいのかな」と疑問を呈する。「面白かったんだもん」「面白かったら、笑っていいの?」それはイジメではないのか? いや、ちょっとイジってる(からかってる)だけで、そんなのかまわないのでは? そもそも「イジリ」と「イジメ」は、どこが違うのか、等々。結論はない。
そういうことを子供たちが自発的に話し合っているなら、別に何とも思わない。現代の小学生だからな、と思うだけだ。けれどもこれを教科書によって、考えるべき「課題」として与えられるということは、何を意味するのだろうか。
そこに透けて見えるのは、日常の細かな態度や言動について、「これは差別ではないか」「ハラスメントではないか」と気にすることを強いられている、大人たちの悩みである。子供の頃からもっと自分の行動について反省的に考える習慣を付けておけばよかった、という大人の後悔を、子供に押し付けているということである。ちょうど、もっと早くから英語を勉強しておけばよかったと、幼児から英会話スクールに通わせるのと同じように、子供の頃から「コンプライアンス」を身につけさせておこう、そうすれば悲惨なイジメもなくなるのでは、ということだと思う。
残念ながら、それはうまくいかない。イジメも差別もハラスメントも、身体と環境によって生まれる反射に根差しているので、反省的意識によって抑止しても、それは表面的な対処にすぎないからである。道徳というのは人格の全体性に基づくものであって、「これこれのことはやめましょう」といった行動規制とは何の関係もない。
ただ、そういう見当外れな「道徳」教育を受けても、子供にとってはそれほど害にはならない。子供たちの多くは、そういうことが全部「大人の都合」で決められ教えられていることを、なんとなくわかっているからである。ぼくの小学校の先生は世代としては戦中派で、戦前の「修身」的な忠孝と、戦後のリベラル民主主義がゴチャ混ぜになったような「道徳」を教えていたが、子供たちは別に混乱しなかった。大人も大変だなー、と思っていただけである。
ぼくは伏見区深草の下町の長屋で育ったので、近所に住んでいる大人たちの行状を観察することが、実質的な道徳教育になっていたような気がする。筋向かいにホテルの料理人をしているイケメンの男が若い奥さんと住んでいて、当時見たこともないようなコーンスープの缶詰(たぶん職場からくすねてきた)をくれたりする気前のいい人だったのだが、女癖が悪くて浮気を繰り返し、ある深夜、外が騒がしいので近所中の人が表に出てみると、そこの奥さんがネグリジェのまま物凄い形相で髪を振り乱し、「今度ゆう今度はほんまに殺したる!」と長い料理用包丁を振り上げ、ドブ板の上に土下座している夫を睨み付けていた。
大人はたいへんだなー、とつくづく思った。もちろん大人のそうした行状はお手本にはならないのだが、大人が本気で感情をぶつけ合っている現場を見ることは重要な経験であった。
でもぼくを育ててくれた祖父は、こんな「道徳」教育だけでは不安だと思ったのか、教訓めいた内容の含まれているお話を読んでくれたりもした。いちばん鮮明に記憶に残っているのは、芥川龍之介の「杜子春」である。国語の教科書に載っていたような気もする。
ご存知のようにこれは、仙人にもらったお金で贅沢するのに飽きた青年が、自分も仙人になりたいと望んで、そのためには決して口をきいてはならないと言いつけられる。様々な恐怖や苦痛に耐えて沈黙をまもるのだが、最後に、地獄で畜生道に堕ちた自分の母が目の前で拷問されることに耐え切れず、叫んでしまう。すると眼が覚め、まあそれでよかったのだというような結末になる。贅沢や超俗よりも、素朴な母子の愛が勝る、というような教訓だろうか。
てっきりそういう話だと思っていたら、大学生になって唐代の伝奇物語の本を読んでいて、度肝を抜かれた。杜子春の原話は、芥川による改作とは大きく異なったストーリーだったのである。
杜子春はたしかに仙人から金を与えられて贅沢三昧を繰り返すが、三度目にはすでに反省し、金は自分ではなく自分の一族を助けるために使う。その後自分も仙人になるべく、口をきいてはならないという試練を課されるが、目の前で自分の妻(原話では妻帯者であった)が惨殺されても口を閉ざす。そして地獄に堕ちて様々な責め苦を受けても黙っているので、呆れた閻魔大王が、お前は女に転生させてやる、と告げる。転生した女は生まれつき病弱で口がきけないが、大変な美人だったので、ある男の妻になり子ももうける。しかし夫は妻が話さないことに苛立ち、目の前で赤ん坊の頭を石に叩きつけて殺すのである。我が子の血が飛び散るのを見て、初めて杜子春(が転生した女)は、ああっと叫び声を上げると目が覚める。仙人は、惜しい、もうちょっとだったのに、と言って去っていくのである。
これは、道徳の教科書に載せるのは流石に無理だろうな(笑)、とは思う。
でもこうしたものこそ、残酷さと不条理に満ちたこの世界の現実に対抗できる物語だし、もしこのお話が道徳の時間の課題だったら、先生も本気を出さないと太刀打ちできないだろう。そして大人が本気を出しているところを見るのが、子供にとって貴重な道徳的経験になることは疑いないのである。