オンライン──学会がもはや「学会」ではなくなる?
土曜日は、予定通り美学会西部会において、オンライン(zoom)で研究発表「美学は何の役に立つのか? その後の考察」を行いました。最大50人収容できる会議室に、6名の聴講者に来ていただきました。たとえ数名でも、また距離が何メートルも離れていても、その場で聴いてくれる人がいるのはまったく違います。その場にはリアルな聴衆がおり、同時にオンラインの聴衆もいるという状況は、複雑で興味深い環境を生み出しました。
美学会は会員数1,200人を越える組織ですが、1年間に数回土曜の午後に開催される西部会研究発表会の参加者は、だいたい20〜30名程度です。これにはいろんな理由があります。他の多くの人文系学会にも共通する問題でもあると思うので、その理由についてちょっと考えてみたいと思います。
(1) ぼくが院生の頃は、美学会に入ったら研究発表会に参加するのは当然でした。発表のテーマや内容に興味があろうがなかろうが、行くものとされていました。研究室の中で理由なく参加しない院生がいたりすると、あいつはなんで来ないんだ?という感じでした。半強制的でしたね。今はこんな雰囲気はないと思います。教員が指導院生に、休日なのに学会参加を強制したりしたら、アカハラと言われかねません。
(2) 現在は、学会発表の申し込み(発表要旨)に対する審査は、委員会において厳正に行われていますが、ぼくが院生の時代には、上の先生たちが適当に話し合って決めていたのではないかと思います。若い会員の発表に関しては、うちの院生が今度博士課程に入ったから発表させましょう、みたいな感じで。年長の会員が発表することもありましたが、客観的な審査などしていなかったと思います。その結果、発表内容は多様で、とんでもないようなのもありました。ある意味、予測できず面白かったわけです。それに対して現在は、かなり客観的な審査をするので、発表内容は基準に従った、平均化されたものとなりました。もちろん優れた発表もありますが、野蛮さや驚きはなくなりました。また、若い会員たちの業績作りという側面が大きくなったために、同じ研究室の関係者や、専門が近い会員しか発表には足を運ばなくなりました。
(3) さらに、学会への心情的な帰属感が薄くなりました。「帰属感」というのはポジティヴなものばかりではなく、ネガティヴなものも含めてです。ぼく自身は、院生の頃当時はまだ美学会では珍しがられたアドルノ、ホルクハイマー、ハバーマスなどのいわゆるフランクフルト学派批判理論の勉強をしていたので、保守的な研究室や美学会の中では問題児扱いされ、「どうせ美学会なんて‥‥」と思いながら、それでも自分の発表でそこに一石を投じてやる、みたいな気持ちもありました。つまりネガティヴではあるが帰属感はあったわけです。現在は、自分が発表し論文が学会誌に掲載されたら、もはや年会費を払う理由がないから退会する、という人もいます。そういう人にとって学会とは、業績作りのための手段に過ぎないのです。
(4) それに加えて、教員も学生もたいへん忙しくなりました。教員の大学業務は昔の何倍にも増え、休講もおいそれとはできず、ウィークデーはほとんど出勤、その上に土曜日の学会に顔を出す元気は残ってないのです。学会や研究会、文化イベントの数も増え、多くの選択肢の中から、わざわざ美学会に出席する動機は低くなりました。
さて、そうした事情から普段の参加者数を考慮して、美学会本部ではアクセス数の上限が100人のzoomアカウントを取得し、土曜日の研究発表会を行いました。しかし予想に反して、参加者はすぐにその上限に達し、リクエストしても入室できないという苦情が殺到しました。(当日参加人数が上限に達して入室できなかった人には、ぼくの発表とその後の質疑応答に関してはYouTubeで限定公開する予定をしていますので、しばらくお待ちください。)
参加者数という点から見れば、これは大変喜ばしいことではあります。もちろん、zoomで参加したからといって、全員が注意深く聴いているとは限りませんが(参加者の中には同一の日時に行われている、美学会東部会の会員もいて、同時に二つの研究発表を聴いているのだろうか?と疑いました。あるいは、東にいながらあえて西部会に参加したのかもしれません)。
とにかく、オンラインの学会発表というのは、いろいろ予測しないことが起こるので面白いと思いました。ぼくは大学ではzoom講義を行わず(先日の東京芸大のゲスト講義が初めてだった)、こんな形でテキストのブログ掲載による講義をしているので、zoomのようなオンライン講義が嫌いなのかと思っている人もいるかもしれませんが、そうではありません。そうではなく、オンライン講義によって通常の対面講義を代替する、という考えに興味が持てないだけなのです。
講義であれ学会であれ、オンラインになることで、そこにはまったく異なった状況が発生すると思います。極端に言えば、オンラインになってしまえば、もはやそれらは「講義」でも「学会」でもないのかもしれないと思っています。そのように考えると、ちょっとワクワクしませんか? だから、そこに生まれた新たなコミュニケーションの複雑さと戯れつつ、その可能性を追求することには、ぼくは非常に関心があるのです。そしてコロナによって生まれたこうした事態が、上に述べたような、現在の学会活動が陥っている停滞状況を、少なくとも部分的には打開するきっかけになるのではないかと考えているのです。