「美学特殊講義1」第8回
「これは休講ではない?」
本日は「休講」にしたいと思います。いいかげん疲れてきた。毎週提出ということにしているレポートを見ても、受講生にもちょっと疲れが見えるようなので、一週お休みしましょう。このテキストによる講義も、2ヶ月で雑談も含め75,000字くらい書いている。レポートも、毎週短くても何かまとまったことを書くというのは、学生にとってはなかなかの試練かもしれないね。
それにしても、オンライン講義において「休講」なんて、そもそもありうるのか? Zoomなどを用いた、リアルタイムのオンライン講義なら、ありうるような気がする。今日のように天気が悪く警報が出たので休講、ということはないだろうが、出張中でその時間にネットにつなぐ環境がないとか、体調が悪いという理由で休講にしている先生は、たぶんいることだろう。
しかし本講義のように、ブログ上のテキストで行なっている場合、「休講」とはそもそも何を意味するのか? 休講とは、指定された日時にテキストがアップロードされないことを意味するのだろうか?
だとすれば、「本日は休講」と宣言しながら、今まさに、そのように書いたテキストをアップロードしているではないか? これかなぜ「休講」なのだろうか?
おそらく、この講義が本日「休講」でありうる唯一の根拠は、ぼくが「本日は休講です」と宣言したからではないかと思う。休講だと宣言する行為が、休講という事実を作り出す。つまりこれはサール(John R. Searle, 1932〜)の言う「言語行為(speech act)」(オースティン John L. Austin, 1911 - 1960 の言う「発語内行為(illocutionary act)」)である。
だが更なる問題は、もしもこの講義の遂行がブログへのテキストのアップロードを意味しているのだとすれば、「本日は休講です」という宣言から始まるこのテキストそれ自体が、この講義が休講であるという事実に矛盾しているということである。
「すべてのクレタ人は嘘つきであるとひとりのクレタ人が言った」だとか、パイプの絵の下に書かれた「これはパイプではない」みたいな、自己言及パラドックスやそれにまつわるゴタゴタした議論を思い起こさせる。
そして、何となく「休講です」と言っただけなのに、こんな言語行為論の講義をしはじめたりして、ますます休講らしくない、授業じゃないか、というのも大きな矛盾である。
まあいい。人生は矛盾だらけだ。(こういう抜け方はちょっと「休講」的かもしれない。ぼくはそもそも、逆説的ロジックをもっぱらゲーム的にいじくり回すことにはすぐ飽きてしまう。)
むしろ、こんなふうに考えた方が適切かもしれない。このテキストによる「講義」それ自体が、本当はそもそも講義などではなくて、すべて「休講」であったのかもしれない、と。あるいは「休講」と言うより、今話しているこの場所は教室ではなくて、どこかの空き地、校舎の屋上のような場所ではないのだろうか? と。
ぼくにとってネットに書くと言うことは、「世界に向けて発信する」などという大層なことではなくて、屋上で空に向かって〈つぶやく〉ようなイメージなのである。
今から20年以上前、まだSNSもWeb 2.0もなかった頃、自分でHTMLのコードを書いて作ったホームページにはじめて書いたオンライン・エッセイは、「屋上の思想」というものである。1998年9月15日という日付がある。これを読んでいる学生の人たちの多くが生まれた頃ではないだろうか。
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「屋上の思想」
昔聞いたRCサクセションの有名な曲のひとつに、「トランジスタラジオ」というのがあります。この歌は、ぼくの想像で再現すると、だいたいこんな状況を歌ったものです。70年代半ばの、ロックファンの高校生の男の子がひとり、授業を抜け出して屋上の「日の当たる場所」で寝ころんでいる。かれはそこでタバコを吸い、「内ポケットにいつも」忍ばせているトランジスタラジオを聴くのです。そうしながら「彼女」が教室でおとなしく勉強している姿を思いうかべる。ラジオは「きみの知らないメロディ、聴いたことのないヒット曲」を運んでくる。
さてこの情景では、まず何よりも「屋上」という場所の魅力が圧倒的です。いったい「屋上」って何だったんだろうか。「屋上」は、ラジオ体操やバレーボールをしたり、秘密のデートや取り引きをしたりするだけの場所ではなかった。また失恋を癒したり、友達を慰めたり、喧嘩をしたり、犯人を追いつめたり、飛びおり自殺を企てたりするためだけにあるのでもなかった。いや、むしろそうしたことすべてを可能にするような空間の独特な質が、そこにはあったのです。
「屋上」とはひとつの「空き地」です。そしてこの「空き地」は、地表が宇宙に向けて突出した岬のような場所です。それはいわば、天空に半ば突き刺さった大地であり、そこでは〈風〉と〈土〉という二つの異質なエレメントが解け合っている──「屋上」とはそうした境界領域です。トランジスタ・ラジオはそこで、何にも阻まれることなく「ベイエリアから、リバプールから」ヒット曲をキャッチしてくる。授業を抜け出してこの「屋上」という空間に入る少年は、大気圏に広がるラジオ電波のネットワークに触れることになるわけです。
これを現代に置き換えて考えてみると、どうでしょう。トランジスタラジオはパソコン、ラジオ放送網はインターネットということになるでしょう。もちろん、ラジオがコンピュータになることによって、もはや後戻りできない決定的な変化が生まれました。それは、情報の双方向性(インタラクティヴィティ)です。そのことによって、本当の意味でのネットワーク、つまりどこにも中心のないウェッブが生まれました。世界は、どこもかしこも「つながれた(ワイヤード)」情報空間となった。では、あの「屋上」はどこに行ったのでしょうか?
それは、いまやどこにでもあるのです。パソコンとインターネットによって作り上げられたコミュニケーション空間においては、自宅の机の前も、オフィスも、通信端末をもって歩く街も、いわばあらゆる場所が「屋上」のような境界性をもちます。「屋上」は遍在する。どんな場所も宇宙へと突き出した突堤となり、そこでは〈風〉──たえざる運動・軽さのエレメント──と、〈土〉──重く停滞する実体性──とが溶け合っている。あらゆる空間がそうした二重性をもつようになった……これは、すごいことです。人間をとりまく「意味の宇宙」の、根本的な構造が変化したのです。
電脳ネットワーク化は、人類の文明史上の一大転換(というよりも、そもそもぼくたちが「文明」と呼んできたこの数千年の伝統そのものの転換)をもたらすことは確実です。これまでのような社会も、経済も、国家も、教育もこれからどんどん解体してゆくことでしょう。マスコミはそれを、まるで戦争のようにけたたましい鳴り物入りで、誇大なレトリックで騒ぎ立てています。たしかに大きな変化のときが来ているのはそのとおりなのですけどね……
でも、本当に重要な変化は、静かな足どりでやってくる、ということもある。サイバースペースがすべての場所をリンクさせる状況を考えるとき、それを「あらゆる場所が屋上になった」こととして考えてみることも必要なのです。「屋上」は「境界領域」ですが、同時にどこか、ポカンと抜けたような空間でもあるわけです。この「ポカンと抜けたような」という部分が、とても大事なんだ。うまく言えないけどね。そういえばキヨシロウも「あーあ、こんな気持ち、あーあ、うまく言えたことがない……」と歌っていた。電脳空間にひそむ、この可能性に気づくことができなければ、本当の21世紀はやってこないと思う。
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ナイーブでロマンチックなテイストのある、ほんとにいい文章だなぁ(笑)。いや、もう20年以上も前になると、自分とはいえ、もう別の人みたいな気もするので。
それにしても、この41歳のヨシオカ先生が言っている「本当の21世紀」は、果たしてやってきたのだろうか?
ぼくは、これからやってくるのではないかと思っている。100年前だって、本当に20世紀的な世界が到来したのは、第一次世界大戦が終わった後だった。逆に言えば、現在のネット文化はまだ本当のネット文化などではないのだと思う。
「歴史は、まだ始まっていない。」(Th.W.アドルノ)
最後に、テキストではなく実際にぼくが話をするイベントのお知らせです。
ひとつは今週の土曜日、第329回美学会西部会の研究発表会(http://www.bigakukai.jp/news/#p268)というものがあります。本来は同志社大学で開催される予定だったのが、コロナのためにオンライン開催となりました。Zoomで行います。そして研究発表ももっと若い人たちがやる予定だったのですが、これもコロナのため大学の図書館が使えず準備ができないという理由で、名古屋大学の秋庭先生とぼくとがピンチヒッターとして話をすることになりました。ぼくの話は、今年1月に成城大学で話した内容を発展させたものです。
美学会の研究発表会は通常は「来聴自由」としています。しかし今回はオンラインですので、zoom会議のリンクを公開するわけにはいきません。また参加人数にも制限がありますので、美学会会員が直接知っている視聴希望の方には、リンクを個人的に教えてもいいことにしています。
これはオンラインですが、ぼくは自宅でパソコンに向かって話をするのは好きではないので、大学の大きめの会議室を使って、何人かの聴衆の前で話すことにしています。感染対策はしていますが、これも大学の催しとして公表することはできないので、ここでつぶやくだけにします。詳しいことが知りたい人は個別に連絡してください。
もうひとつは、7月25日に横浜で行われる「メディア変容と新型コロナウィルス」( https://y-labo.wixsite.com/home/open2020-02)です。これは、室井尚さんが代表をしている科研「脱マスメディア時代のポップカルチャー美学に関する基盤研究」の第2回オープン研究会として行われるものです。参加希望の方は、上のサイトから申し込んでください。ただ聴きたいというのではなく、積極的に議論にも参加してくれる人を希望しています。