愚かさがなければ、表現に進歩などない
【質問】私は子供の頃からバレエや音楽の演奏会などで舞台に立ってきました。小さい時は何の躊躇いも緊張することもなく、大きな失敗もしたことがありません。しかし中学生になったころから緊張するようになりました。「失敗したらどうしよう」と考えるようになってしまったのです。その一方、「このフレーズの表現を変えてみたらどうだろう」とか、試したくて仕方がなくなることもありました。自らの技(art)を自由に働かせるアーティスティック・マインドが必須なのではないかと考えます。アーティスティック・マインドはアドリブとも深い関係にあるのでしょうか。
【回答】同様の経験を持つ人は、少なくないのではないかと思います。
小さい頃は、なぜ人前で演技することが気にならないのか。それは、幼児にとっては「社会」というものが存在しないからです。幼児にって、世界はすべて家族の延長なのですね。だから、たぶん失敗もしていたとは思うが、みんな自分のことを知ってくれている人たちだから、自分の力も知っているし、何をしても許されるのです。そういう環境では、人間は自分の能力を100%発揮することができます。
けれども思春期になると、自分のことなど知らない、自分など存在しようがしまいが関係のない他人たちが、実はこの世のほとんどであった!、ということが、ある時突然分かります。すると今までは何なくできていたことが、うまくできなくなります。それまで自明であったことが自明でなくなり、世界全体が親密なものから、見知らぬよそよそしいものになるのです。
いわゆる「中2病」というのもこれに対する反応のひとつですが、もっと一般的なものです。現代では昔のように、親や先生に対する「反抗」という形では現れにくい場合も多いのですが、基本的に起こっていることは同じです。この世界が思いやりによってではなく、権力、暴力、競争、序列によって成り立っていることが分かります。そして、性交や生殖に関する事実を知ります。
多くの人はまもなくその状態に慣れ、適応しますが、それは単純な成長ではなく、実は適応というのは、幼児的な世界との一体感を、今は失われた魂の故郷として理想化するという代償を伴っているのです。だから舞台に立つ前に、失敗は怖いがこういうことをしても世界は受け入れてくれるはずだ、という気持ちが起こるのです。ナイーヴな態度だし、現実には失敗することも多いのだが、これがなかったら、人は新しいことを試みることができません。
確かに、それは本来の意味での「アドリブ(ad libitum)」とということであり、またぼくが「アーティスティック・マインド」という言葉で考えているものと、関係はあると思います。誰もが賢明になれば世の中は良くなるわけではなく、生命には愚かさが必要なのです。大人になって、社会を知った後でも、幼児に戻る瞬間、自分のことをみんな分かってくれるのではないかと信じる瞬間がなかったら、表現において新しいことは何も起こらないと思います。