「美術館よ、お前も〈映え〉と〈女子〉に走るのか?」
やっぱり来たね、この話題。
何人かから、どう考えるか質問を受けた。講義の内容と直接関係はないけど、答えておきましょう。
話題を知らない人のために。これは美術館連絡協議会と読売新聞オンラインによる企画「美術館女子」のことです。オンラインの『美術手帖』を見てください。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/22140
ポイントはふたつですね、〈映え〉と〈女子〉。
まず〈映え〉というのは、「インスタ映え」などの〈映え〉ですが、要するにビジュアル的な魅力によってネットを中心に拡散し、たくさんの人が見るようになる、さらには現地を訪れるようになること。つまり美術館が、そうした効果が期待できるような場にならねば、という戦略です。
ようするに「営業」です。
そりゃあ仕方がないだろう、と思う人もいるかもしれません。でもね、そもそも美術館というのは、「営業」なんて気にしなくていい場所だったのです。いや「しなくていい」じゃなく、むしろ「してはならない」場所だった。地域行政や、学校(教育)や病院(医療)と同じです。この中では美術館は、学校にいちばん近い場所です。
つまり、観客が何人訪れるかにかかわらず、良いもの、観るべきものを展示する場所です。何が「良く」何が「観るべき」ものなのかは、美術を専門にする学芸員が決めます。もちろん専門家だからといって、いつも必ず正しい判断をするわけではありません。それでも、市場原理とは異なった基準から企画する人々がいた方が、長期的に見れば、国家や国民にとって、大きな益になるのです。それが美術館の存在理由です。だから、少なくとも国公立の美術館は「営業」を目的としてはならないのです。
けれども1990年代後半あたりから、美術館は「自分で稼げ」と言われるようになりました。そこで通常の美術展に挟んで、「こんなもの美術館でやるのか?」と疑われたような、マンガやアニメなどのポップカルチャー、家族で来てもらうための子供向け企画、等々を実施せざるをえなくなりました。
それらは全て無駄だったわけではありません。ハイカルチャーに偏していた美術館が、ポップカルチャーやサブカルチャー、地域性やコミュニケーションの重要性に目を向けたことは、美術や美術館のあり方を根本から反省し、拡張する機会を与えてくれたことはたしかです。
〈映え〉は、そうした営業的効率追求の果てに、当然出て来るソリューションです。
このことで、「美術館はそんなことでいいのか!」と美術館関係者を責めるのは見当違いです。とりわけぼくのような大学に所属する研究者が言うのはおかしい。大学だって「自分で稼げ」と言われてきたわけだし、そのために大学の教員もまた、昔なら考えられなかったような集客や収益のための営業活動を強いられているからです。
だから互いに非難するより、違いはありつつ連帯する方が大切なのです。本当の攻撃目標は全体的な文化行政の流れなのですから、現場の教育・文化関係者全員が、それを変える方向に連帯することがいちばん大切です。クソ真面目じゃなく、ユルく面白く連帯できる工夫をすべきです。そのまま昔に戻るわけにはいかないのだから、〈映え〉も端的に拒絶するより、うまく利用する方がいいかもしれません。
そして、〈女子〉。これも営業戦略ではあるのだけど、ちょっと違う要因が入ってくる。
つまりジェンダー的な要因ということなのですが、ジェンダー的と言っても必ずしも、美術に無知でナイーブな存在という役割が〈女子〉に振られていることがケシカラン、ということだけではないのです。
ぼくは京都のボイスギャラリーから出ていた『有毒女子通信』という、マイナーでアンダーグラウンドな出版物の編集長を何年かやってきたのですが、この冊子で「女子」に着目したのは、世の中で不当に差別され虐げられている女性たちを救おう、というようなヒューマンな動機ではなくて、この「女子」とは「おじさん」(世の中を仕切っている成人男性)の反転像でもあると考えたからなのです。
若い女性が成人男性の性的欲望の(現実の、あるいは想像上の)対象であることはもちろんそのとおりなのですが、それだけではなく、若い女性は成人男性にとって、抑圧された自己像でもあるのです。このことが、普通のフェミニズムではなかなか可視化しにくい厄介な点です。
もっとハッキリ言いましょう。美術や美術館において責任ある立場にある成人男性の多くは、「美術なんて難しそうでワカンなーい💚」なんて、立場上なかなか言えません。(でもね、美術というのはそもそも分からないものであり、だから面白いのです。)それで、そうした抑圧された自己像を、性的対象でもある若い女性に仮託する。「おじさん」達がその自己像を仮託するが故に〈女子〉は本来ある以上にその性的価値を過剰に増幅され、キャサリン・ハキムの言う「エロス的資本」として搾取される、ということになります。
これは美術に限らない一般的な傾向です。つまり少女たちや若い女性たちが、その性的価値を過剰に「開発」され、商品化されてきたプロセスは、やはり1990年代以降、文化的・公共的なセクターが民営化され市場原理によって画一化されてきたプロセスと、ほぼ重なっているのです。
こうした流れを変えることが大切です。たぶん今はその好機なのだと思います。