関西学院大学大学院「美学特殊講義1」第5回
「生命と機械、フランケンシュタイン、そしてウィルスについて」
2020年6月17日(水)15:15
メディアや現代社会の状況を、近代的な思想潮流の中で理解するために、今日は生命と機械、フランケンシュタイン、そしてウィルスについて考えてみたい。
〈生命〉について考えることは、同時に〈機械〉について考えることになる。機械について考えることなしに、生命について考えることはできない。それら両者は、二つの別々な主題ではなくて、いわば同一の主題の持つ二つの側面なのである。けれども、このことを適切に理解することは容易ではない。それはなぜか。
機械と生命といっても、私たちが馴染んでいる近代的思考においては、この二つを同等に考ることができなくなっているからである。別な言い方をすれば、そこでは〈機械〉の方に特権的な主題性が与えられているからである。その結果、〈生命〉はある種の余剰、境界の向こう側、捉えがたい外部、のようなものとしてしか表象できなくなっている。生命と機械をめぐる思考の運動は、ある壁の中に閉じ込められているとも言える。
生命/機械をめぐる思考の前に立ち塞がる壁は、「生命は単なる機械ではない」という命題に、典型的に現れている。けれどもこの命題それ自体は、誰でもそれほど抵抗なく受け入れられるものではないだろうか。「生命は単なる機械ではない」は、そう言われただけで確かに真理のような、いろんな物語のキメ言葉のような感じがする。にもかかわらず、この命題が正確に何を意味しているのかは、実はまったく自明ではないのである。
そこから少なくとも確実に分かるのは、生命を理解するには、まず「単なる機械」とは何かを知らなければならないということである。「単なる機械」とは何だろうか。そもそも、この言い方における「単なる」という言葉は、いったい何を言おうとしているのだろうか。
そこにはまず、機械とは基本的に、私たちがその動きを予測したり、自分の望むままに制御したりできるものだという前提がある。機械とは、予測と制御の範囲内にあるとされる。別な言い方をすれば、機械には主体性や自律性はないとも言える。
生命もまた、この世界に現象として現れている。現象としては、それは機械と同じ物理化学的な法則に従って作動する。つまり現象としては、生命は機械として現れるのである。もしも「生命は単なる機械ではない」のであれば、生命は何らかの仕方で、主体的で自律的なもの、予測や制御を逸脱するものでなければならない。
近代的思考において機械が特権的な主題となったきっかけは、産業革命である。初期産業革命において多くの人々の思考を支配した機械のモデルは、蒸気機関である。燃料を食べて力を生み出すこの機械は、あたかも生命に挑戦するもののように受け取られた。なぜならそれは自律的に動き、人力や家畜のような生物による労働力・エネルギーを代行し、しかも生物学的な力を量的に凌駕したからだ。
だから人々の間には、蒸気機関という機械は確かに生産活動においては生物に取って代わったが、しかし「単なる」機械は決して生命ではありえない、という思考パターンが形成された。生命への問いを機械との差異として考える習慣が広がったのである。
機械がなぜ生命ではない「単なる」機械なのかというと、それは19世紀においては、例えば「自己増殖しない」という点に求められた。オスの蒸気機関とメスの蒸気機関を一緒にしておいても、子供の蒸気機関が生まれることはない、というような冗談があった。生殖が、生命と機械とを分ける決定的な境界と考えられたわけである。「単なる」機械は生殖もしないし進化もしない──それは〈機械〉のモデルが、鉄でできた動力機構だったからである。言うまでもなく今日では、それは生命と機械を分ける指標とはならない。
現実ではなく想像力の領域においてはどうか。フランケンシュタインの怪物(以下「の怪物」を省略)は、メアリ・シェリーの原作においてはその身体が何で出来ているのかハッキリとは分からないのだが、私たちは何となく、死んだ身体の部分がつなぎ合わされているかのように想像している。フランケンシュタインとは合成された死体なのである。
ではそれが生命を持つ瞬間は何時か。何によって「単なる」機械(死体)に生命が宿るのか。それは落雷による電撃である。その由来は、ルイジ・ガルヴァーニのカエルの足を痙攣させた静電気であるとされている。フランケンシュタインに生命を与えた電撃は、フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』(1927年)でロボットのマリアを生きた娘に変え、その後、機械と生命をめぐる数え切れない物語の中へと増殖してゆく。
「単なる」機械(物質)が何らかの特別な力によって、生命を宿す存在となる。こうした思考が「生気論(vitalism)」である。静電気こそこの「力」ではないかと考えた18世紀末の生気論は、いわば生気論の最終的バージョンである。19世紀になると、パストゥールによる自然発生の否定やダーウィンの自然選択によって、生命現象を素朴な生気論によって説明することは科学的とみなされなくなってゆく(ドリューシュの哲学的な新正気論は別として)。
けれども私たちの想像力の中では、生気論的な思考は生き続けているのである。だが現代において生気論的思考が作動する場所は、もはやフランケンシュタイン(的な形象)ではない。フランケンシュタイン以降の全ての人工物、ロボット、サイボーグ、人工知能、シンギュラリティ等々によって駆動される想像力は、もはや基本的に「レトロ」である。生命の人工的創造とそれによる復讐や破局──アイザック・アシモフの「フランケンシュタイン・コンプレックス」──というループの中を動いているだけだからだ。
「ウィルスは生物か?」これは新しい問いである。ウィルスは自己増殖し進化するという意味では、確かに生物のように見える。けれどもウィルスは、食べることも排泄することも、興奮することも眠ることも、老化することも死ぬこともない。死ぬのではなく分解する。活動を停止したウィルスは眠っているのではなく結晶化している。ウィルスは生命というよりも分子で出来た機械なのである。
にもかかわらず、ウィルスは生物の身体に入り込み、異なった種の生き物の間を行き来して、生物進化にダイナミックに関与してきた存在なのである。ウィルスだけを取り上げて「それは単なる機械なのか生命なのか?」と問うこと自体が、もはや馬鹿げているのだ。ウィルスの思想的な意味での重要性は、それが〈生命〉と〈機械〉をめぐる近代的な思考の基本パターンそれ自体を揺るがすという点にある。
にもかかわらず、私たちがやっていることは何だろう? 〈生命〉についての新たな思考と想像力へと促すウィルスを、何とかして古き良き「生気論的想像力」の中に、お馴染みの「フランケンシュタイン」的ループの中に、なんとか押し込めようと必死になっている。科学の装いを纏いながら、実は科学とは程遠い、ゴシック的な世界への退行・逃避──それが、今世界中で行われていることなのだ。
多くの人は、新型コロナウィルスの顕微鏡画像をどこかで眼にしたことだろう。その多くは、赤や緑の毒々しい色で彩色されている。だが冷静に考えてみれば、ウィルスは光学顕微鏡ではなく電子顕微鏡で撮影されたものだから、色の情報は含まれていない。ウィルスの表面には固有色を示す色素があるわけではない。もしもウィルスをギッシリ並べて光を当てれば光学顕微鏡でも何らかの色が見えるのかもしれないが、そんなことをしてもあまり意味はないだろう。
それではあの色は何なのか? あの色こそが、ウィルスに投影された現代の生気論的想像力なのである。猛毒のキノコのような色を通して私たちは、本来はシンプルで機能的な分子機械であるウィルスの形を、人類に敵意を抱き毒針を持ってそれを攻撃しようとしてくる恐るべき「敵」として擬人化するように、誘導されているのである。
これは本来は科学とは関係のない政治的誘導にほからないが、それはその説得力を科学から借りている。そして政治的にナイーブな専門的科学者は、ウィルスの写真に「一般の人にも分かりやすくするために」恐ろしげな色を塗ることに反対しない。
そしてこうした科学の政治的利用は、ウィルスの視覚化にはとどまらない一般的な問題なのである。そうした利用がなぜ成功するかというと、それは私たちが無意識のうちに受け継いでいる、近代的な思考や想像力のパターンに訴えるからである。近代的思考をその古い層へと辿ってゆくことは、それを意識化するということである。
今日は疲れてはおらず元気なのだけど、オンライン会議やら何やらで、あんまり時間が取れなかった。ちょっと圧縮度の高い説明不足の記述になってしまったかもしれない。そして、前回まで「ですます」調だったのに今日は「である」調で書いていることに今気がつきました。では。
【参考文献】
メアリ・シェリー『新訳フランケンシュタイン』(田内志文、角川文庫、2015)
ブルース・マズリッシュ『第四の境界──人間-機械[マンマシン]進化論』(吉岡洋訳、ジャストシステム、1996年)