「情報文明を可視化する〈フィルタ〉としてのコロナ」
雑談と講義の切り分けが難しい。そもそも切り分けることが可能なのか、そもそも必要なのか、という疑問もあります。このところなんとなく形式上は、講義は「である」調で雑談は「ですます調」みたいになっています。でも「形式」とは言っても、こうした文体上の区別は本当は深く「内容」に関わってくるのです。「である」調で自然に書けることが「ですます」調では不自然に響いたりするし、またその逆もあります。形式と内容は分離できない。これも美学上のトピックなのですが。
そもそもこの講義における発話の場というのが、自分で選択したこととは言え、独特の緊張を伴った状況なのです。場の形式によらずどこでも同じ話ができる、などということはない。今年度前期の関西学院大学における、少人数の大学院講義である、というのがタテマエなのですが、ブログだからもちろん公開になってしまいます。そして公開する時は教えて欲しい、という人がいるので、新しいテキストを書いたらTwitterとFacebookで告知しています。すると大勢の人が見に来て拡散されたりする。そのことがどうしても気になってしまい、教室の中のような気楽な喋り方ではなくなってしまう。受講している院生たちには、申し訳ないような気もします。
とはいえこの、言わば「半公的」な性格が、ネットの可能性でもあるとぼくは思ってきました。ネットの情報は「私的」でも「公的」でもなく、本質的に「半公的」なのであって、それはちょうど、自分の家やお店の外の道に、何かを並べておくことに似ています。道だからそこを誰でも通って行くし、近くにくれば並んでいるものを見ることもできる。無視して通り過ぎる人には、それは無いも同然なのです。そうした状況にあるものは全て「私的」でも「公的」でもあると言えます。
ただしこれは空間的な喩えであって、ネットというのは、この空間的制約自体が存在しないということです。だから一気に拡散したり炎上したりする。それがたまに持ちうる影響力のために、ネットは未だに、従来のマスメディアの持つ公的な性格になぞらえて理解されています。大抵は周囲のごく限られた人しか見ないのに、ネットに書くだけで「世界に発信する」などと言ったり。私たちはまだネットの「半公的」本質を適切に言い表す言葉をもっていないので、「放送」とか「出版」といった従来のマスメディア的概念でカバーしようとしているだけなのです。
さて、従来の大学の講義は決して「私的」なものではありませんが、教室という空間的な制約によって、その及ぶ範囲は限られており、また基本的に一回的な出来事という性格も持っています。だから、ある時ある場所でそれを共有した人たちの間に限定された経験です。一方、現在世界中で行われているオンライン講義は、そうした従来の講義を補償するものと位置付けられていますが、実は根本的に、まったく別物なのです。
もちろん、zoomにしても参加するには会議のIDやパスワードを知ってしなければならないし、限られた人々の間だけのものであるように見えます。けれどもネット上にあるものは原理的には、晒されているものなのです。建物の教室を隔てる壁は、その物理的存在という本性上、その「外」から「中」を、開かれた公的空間から親密な私的空間を隔離します。それに対してネット会議のIDやパスワードは、壁と同じように内部を護ってくれるわけではありません。デジタル情報はその非物理的性格上、全てが晒される可能性の中に置かれているからです。IDやパスワードといったものは、そうした情報の本性に反して、いわば無理して「壁」のようなものを作り出している、苦肉の策にすぎません。だから、原理的に破られるものなのです。
それはオンラインのミーティングに限られた事ではなく、電子的なネットワークの持っているそもそもの本性に由来しています。ローレンス・レッシグが繰り返し強調していたことですが、電子的に何かを「書く」ということは「コピーを作成する」ということを意味しています。だからたとえば「電子メール」というのは本当は、たんに郵便書簡をより便利で高速にしたものなどではなく、何かまったく別な行為を私たちはしているのです。その行為にはまだ名前がないので、私たちは今はそれを「メール」と呼ぶしかないが、本当は「メール」とはメール(郵便)とは似ても似つかない何かなのです。このことの不気味さと驚きを実感するには、見慣れた日常を少し落ち着いて眺めてみる必要があります。
さて、いろんなものがオンライン化されてすでに何ヶ月か経過しましたが、少なくとも大学の講義に限って言えば、けっこう多くの人が、もうこれでいいんじゃないか、というような感想を持っているようなのは、面白い。とりわけ若い学生たちからは、講義なんてこれからもオンラインで十分、という声をよく聞きます。また教員も、とりわけ30代、40代の若い先生たちの多くは、コロナが終息しても講義はもうオンラインが基本になればいいのでは、と言っている人が少なくありません。ぼくのような古い世代の教員の一部だけが、オンライン講義なんて講義じゃないと不満を述べているようにも感じる。
でもこんな世代的な違いは、ぼくには本当はどうでもいいのです。重要なことは、オンライン「講義」というのは、「講義」と呼ばれてはいるけれども、実は「講義」とは別な何かであるということです。そんなものは講義としてダメだということを言いたいのではない。そうではなくて、これまで「講義」と呼ばれてきたものとは、まったく別な活動だということです。これにもまだ適切な言い表し方がない。けれどもぼくが面白いと思うのは、今のコロナという状況をきっかけとして、多くの人がそちらに移行したいと感じているということです。
現在私たちが置かれている状況は、それをウィルスによる感染症という枠組みだけで見ている限り、その文明史的な本質は分からないのではないかという気がします。コロナの状況は明らかに、インターネットを条件として生じている現象です。もちろんウィルス自身は、ネットのことなんて知りません。けれどもインターネットが人間生活の基盤となって約20年、それは私たちの見慣れた日常風景と化しながら、私たちはネットによって動く人間の活動というものがそもそも何であるのかを、適切に表現し理解する言葉を持っていないのです。そのために、マスメディア的な概念を無理やり適用しながら誤魔化しているようなところがあります。それで見かけ上は、何となく過去からの連続的発展のように思える。そこには実は深い断絶があるのですが、その断絶は無意識に追いやられていた。
ぼくにとって現在のコロナ状況は、こうした私たちの「無意識」を可視化する役割を果たしていると感じられます。言ってみればコロナとは、「脱マスメディア的条件」を析出するフィルタのように働いているので、それをきっかけとして、直接ウィルスとか感染症とかとは関係のない、様々な政治的、経済的、文化的な現象が露わになってくるのだと思います。これについては、また機会を見て具体的に展開してゆきたいと思います。