ずいぶん間が空いてしまった。
ブログなんて自分の勝手でやっているものだから何の義務もないのだけれど、見られているという感覚があるので、やはり半ば公的なものになってしまうのは仕方がない。まあ、それだから面白いのだけれども。
少し間が空くとかえって書きづらくなる。それは、学校を休めば休むほど行きづらくなるのと似ている。そして友達に「大丈夫、何もしなくていいから出てこいよ」なんて言われるとかえって行けなくなるのと同じように、「先生、楽しみにしてるので短いのでもいいから書いてくださいよ!」なんて言われると、かえって書けない。
要するにそれは自己愛からなのである。世の中には賢い人たちがたくさんいて、自分よりも賢いことをたくさん書いているから、わざわざ自分は書かなくてもいい、とか思う。けれどどこかには、沈黙している自分の方が本当は優れているというような矜持が蠢いており、沈黙している自分を見て欲しいという欲が働いている。だが、書かないのは忙しいからだと自分に言い聞かせていたりすると、そのことに気づくのが遅くなる。
まあ、そんなにクソ真面目に考えても仕方がないのだけどね。
この2年の間に自分と同世代の友人が2人亡くなり、今年の3月には母が亡くなった。夏には若い人たちがとても素敵な還暦の誕生会をしてくれた。というようなことを書くと、ああ自分も歳をとったなとか、次は自分の番だなあとか、そういう感慨めいたことを書きそうに思われるかもしれないが、実のところ、全然そんな感慨は湧いてこないのである。
それではいつまでも気持ちは若いままかとというと、もちろんそんなことはない。逆である。ぼくは小学生の時から年寄りじみた子供で、若者の時も、バカなくせに妙に悟ったような性格で、もしその頃の自分を今目の当たりしたらずいぶんヤな奴だと思うだろうけど、60歳になってみて、ようやく年相応になってきたというか、やっと身体が気持ちに追いついてきたというか、そんな感じなのである。
母の住んでいた部屋に、自分が10代の頃に書いた作文とか今でも残っているのだけど、それを読んでも、何というか、今と全然変わらないのには驚かされる。文体のレパートリーとか知識の量とかはもちろん違うのだけれど、基本的な生の実感というか、姿勢のようなものが何も変わっていないのである。成長というものは本当はないのだな、とつくづく思う。自分はたとえこの時に死んでいても、何も変わらなかっただろうとも感じる。
けれども、本当は全く同じではない。なぜなら、10代の時には成長を信じていたからである。その時には、60歳にもなればいろんなことが分かり、いろんなものから解放されると思っていた。歳をとれば人間は変わると思っていた。でもそうはならない。そうはならないと分かったのが、今まで生きながらえた唯一の収穫である。そのことを10代の自分が知ったら絶望したかもしれない。でも今はそのことを知っても、それは自然なことだと思えるのが、唯一違う点だろう。
子供の頃から変わらない基本的な生の実感というのは、生きることはとても不自然な状態だというものである。死の方がよほど安定した自然な状態であり、生きていることは不安定で、とても無理のある状態だという感覚だ。今はこんな風に淡々と言えるけど、子供の時は言えなかった。ぼくは死の恐怖というのは昔から感じたことはなくて、そもそもその意味が分からなかった。死に至る苦痛に対する恐怖はあるが、死そのものを恐れるという理由が、子供の頃も思春期の頃も分からなかった。だって、誰だって生まれる前はずーっと死んでいたのに、どうして何十年か先にその状態に戻ることが恐怖なのだろう?
これが自分の身体という実感も、ぼくには比較的薄い。今年は帯状疱疹の激痛とかも経験して、そのほかにも加齢による身体の弱りはたしかにいろいろと出てくる。でもそれは当たり前のことで、痛い時には痛がるけども、べつにしみじみ悲しいとか思わない。たまたま生まれてきたことも今生きていることも自分の手柄ではないし、この身体はもともと借り物なのだから、大事にしようとは思う。
束の間の、仮のものだからこそ、大切にしたいという感覚も、今は非常にハッキリとしてきて、これもたしかに、若い時にはボンヤリとしか自覚できなかったことではある。人が何かについて投げやりになるのは、実はその何かに強く執着しているからであり、その執着が裏切られたことへの反応に過ぎない。誰でも死ぬ前には、(この世への執着が離れるので)目の前の生きているものを大切にしたいと思うはずである。だから、いつもそうした死ぬ前のような気持ちで生きることができればいいのだと思う。
というか、それしかないのではないのではないだろうか?
…というような思いが、まあ60歳になった実感かな。ほとんど何も言ってないようなことだけど。