オリンピックは、競技・演技は面白く観ても、その後のインタビューを聞くのは辛い。 競技・演技がすべてを語っているのに、どうしてその直後につまらんことをいろいろ訊かなければならないのだろう。勝てば嬉しいに違いないし、負ければ悔しいのは分かってるのに、そんなことをどうしていちいち、本人に確認とらないといけないのか、ぼくにはまったく不可解である。第一、疲れてるのに可哀想じゃないか。
とはいえ、カメラとマイクを向けられると何か言わないわけにはいかない。つらいところである。それで仕方なく聞いていると、そうしたインタビューでの選手の発言はどれもよく似ていて、二つのまったく異なった種類のコメントから出来上がっている。一つは「人々の期待」に関わるもので、もう一つは「今を生きる」ことに関わるものである。
「人々の期待」というのは、親や親戚、コーチや先生、友だち、近所や地域の人々、最終的には自分を応援してくれた日本人全員の、期待に沿うことができたことに対する感謝(あるいはできなかったことに対する謝罪)のような発言である。「今を生きる」というのは、人々に期待されようがされまいが、闘いの一瞬々々をこれを最後と思って命をかけるしかないということで、これは真剣勝負をしている人間には当然の実感である。
今を生きる、一瞬に命をかけるという境地においては、本来「人々の期待」なんてクソ食らえである。なのに、「人々の期待」に応えるためには、結局「今を生きる」しかないというふうに、たいていのインタビューは締めくくられる。
もちろんオリンピックのような大舞台に出る選手たちが「人々の期待」を背負ってしまうのは、無理もないことだとぼくは思う。そのこと自体は仕方がない。ただ聞いていて辛く感じるのは、この「期待」がいつの頃からか、「投資」という意味で語られ始めたことである。競技場ではあんなに堂々としていた選手たちが、インタビューになると、自分にこんなに投資してくれた人々に、それに見合う(メダルという)リターンを与えることができて嬉しい(あるいはできなくて申し訳ない)などと、まるで会社の代表が株主総会で釈明しているような口調になって、これは本当にスポーツなのだろうか?と疑ってしまう。
もしも選手の不成績に対して、こんなにお金をかけて育てたのにとか、こんなに一生懸命応援してきたのに、などと不満を言う人がいたとしたら、それはその人が百パーセント間違っている。なぜなら、どんなにお金や時間をかけようとも、その報酬はあなたがその子に期待して、金メダルを取れればいいなあという夢を見たその瞬間に、全て支払われているからである。
未来の成功のために現在を犠牲にするというのは、スポーツであれ、学問芸術であれ、また経済活動においてですら、その創造的な部分に関して言えば、本来ありえない。 クリエイティヴな活動は原理的に「今を生きる」ということから成り立っているからである。もちろん、よく生きられた「今」の積み重ねの果てに未来での成功がもたらされることはあるが、それは決して「投資」に対するリターンとしてではなく、単なる結果、いわば「恩寵」のようなものとして与えられるだけなのである。それがあれば喜べばいいが、なかったからといって文句を言うのはおかしい。
教師を仕事にしてきたので、自分がいくら年を重ねても、毎年々々若い子供たちが教室に入って来て話をする。それはありがたいことなのだが、いつの頃からか、学生たちが自分のやりたい事や将来について話すとき、「人々の期待」を「投資」という意味で語るようになった。この場合、「人々」というのは主に「親」のことなのだけれど、親が自分の教育にこれだけお金をかけてくれたのだから、それに応えないわけにはいかない、などと言うのである。昔の「親孝行」というのとは、似て非なる考え方である。
親は、たしかに子供の教育にたくさんお金をかけたのかもしれない。けれどもその見返りは、わが子によい教育を施すことでその将来を夢見た時に、すべて払い戻されているのである。夢見る楽しさを親は買っただけなのだから、それ以上を求めるのは強欲というものであり、不当である。子供たちは何ひとつ負債など背負ってはいないし、なんでも好きなことをすればいいのである。というか、そんなことぼくに言われるまでもなく当たり前のとこだと思う。