芸術は-自由で「無私」の活動であるがゆえに-人権を侵害してもいいのだろうか?
もちろん、いいわけはない。芸術に許されている法律上の「自由」とは、それ自体が基本的人権の範囲を超えることはありえない。だから表現の自由は、原則的にはそれが他人の生存を脅かさない限りにおいてのみ認められる。法的な議論においてもその表現が「美的」「芸術的」であるかどうかがまったく勘案されないわけではないが、何を「美的」「芸術的」と考えるかは人によって意見が異なるので、多くの人が認め既に社会的通念となっている美や芸術の概念に依拠せざるをえない。
けれどもそうした概念は、新たな美や表現の可能性を生み出すべく格闘しているアーティストにとっては、しばしば通俗的で形骸化したものに見える。そんな形だけのものではなく、自分たちの求めているものこそ本当の美であり芸術であると、アーティストや彼らを支持する人々は主張したいのである。この時、彼らもまたある種の「法」を要求していることになるのだが、この「法」は現在の、既存の法ではなく、未だ存在しない法、未来の法である。したがって、これら二つの言説は互いに噛み合うことはない。
「芸術には人権を侵害することも許されるのか?」という問いを立てることは、「ロボットは人間を超えるのか?」みたいな問いを立てるのと同じで、原理的に決着のつかない議論を長引かせることにしかならない。もちろん原理的に決着のつかない議論をしてはいけないわけではなく、それこそ議論するのは誰でも自由なのだけれど、それは真剣な議論というよりも、延々と同じことが繰り返される一種の退屈なエンタテインメントだ。トムとジェリーみたいな。そこで苛立たしいことは、そうした議論をする人々が芸術と自由について議論しながら、芸術と自由をめぐる核心的な事柄については、何ら関心を持っていないように思えることである。
それでは核心的な事柄とは何だろうか? それは「芸術には人権を侵すことも許される」ということではない。許されるか許されないかということで言えば、許されないに決まっている。重要なのは、許されないにもかかわらず、芸術は人権を侵すこともありうる、ということである。人権を侵すどころか、芸術はこれまで、ありとあらゆる反社会的行為や、あからさまに犯罪でしかありえないような行為にも、手を染めてきた。
ここで誤解していけないのは、「反社会的」「反体制的」であるから「芸術的」であるわけではないということである。逸脱的・対抗的だから芸術だというのは安物のロックであり、誰でも安全に口にすることのできる、『日曜美術館』的な芸術観である。そうではなく、芸術は法や権利を語る言説とは原理的にインコンパチブル(通約不能)だということである。そして、原理的にインコンパチブルであるにもかかわらず、近代国家においては、芸術は法の支配する市民社会の中にその位置を事実として保持しているということである。この事実を前にして、私たちはどういう態度をとるべきか。何をどう語るべきか。これが核心的な問題である。
あえて言うなら、芸術は「戦争」と、とてもよく似ている。戦争もまた、法や人権という観点からは絶的に認めがたいことを行うが、それは戦争にはそうした逸脱が許されているからではない。戦争はある意味、法や人権を超えているからである。多くの芸術は歴史上、戦争や戦争のイデオロギーに対して緊張した関係を持ってきたが、それは芸術が本来平和主義的だから戦争に反対したということではない。むしろ、戦争は芸術のライバルであったからだ。芸術にとって戦争とは、いわば「間違った芸術」なのである。芸術が戦争に反対するとすれば、それは法や人権やヒューマニズムの観点からではなく、戦争が美的に正しくないからなのである。
芸術はそれが芸術である限り、「最低限法は守りましょう」とか「許される範囲でやりましょう」というような意識とは両立できない。ただこんなことを言うと、「それは命がけで新しい表現を開拓する天才的な芸術家の話でしょう? 現代社会の中で様々な仕方でアートに関わる人々全員にそんな厳しい覚悟を要求するなんて無理です」という答えが返ってくるかもしれない。それはもちろんその通りだ。芸術は、天才ばかりでは意味をなさない。彼らのやったことを許容し、解釈し、評価するたくさんの人々がいるから意味をなすのである。そして芸術に関してそこそこ優秀な人や、凡庸な人や、ミーハーな人たちもいるから面白いのである。ぼくも含め大多数の凡人たちは、既存の「法」の内側に守られながら芸術を眺めている。これが近代市民社会、大衆社会の中で芸術が存立していることの基本的な条件である。
けれどもここで重要なことは、芸術に関わるということは原理的に、どんなに凡庸で常識的な人にとっても、自分がいつその「法」の向こう側に転落するかもしれない、人権を侵すことになるかもしれないという「危険」の中に、身を置いているということである。意識するしないに関わらず、「安心安全」が保障されていないというこの基本的状況こそ、芸術の基本的な存続基盤なのである。そして芸術の核心に存在するこうした危険性は、(戦争のような)全面的でカタストロフィックな危険性とは、別な可能性を提示する。その意味において、芸術は社会にとって決定的に重要な活動なのである。