現在岐阜美術館にて開催中の「BEACON 2015 みあげてごらん」は、10月12日まで展示しています。そのチラシに掲載したテキストと、会場に置いた解説文とを、ここにも公開します。パリ第8大学の大久保美紀さんが、ご自身のブログにレビューを書いてくれました。
【チラシに掲載したテキスト】
BEACON 2015は、「空を見上げる」という行為に注目する。「見上げる」という行為を通して、互いに隔てられた場所や人々を結びつけることを、試みたい。
人はそもそも、どんなときに空を見上げるのだろうか?
それはたとえば、この世の煩いから離れたいときであり、遠い存在に思いを馳せるときかもしれない。
またそれは、希望を持とうとするとき、あるいは反対に、絶望したときであるかもしれない(見上げるという行為において、希望と絶望とはつながっている)。
さらには乗り越えがたい障壁によって、突然行く手を阻まれたとき。それはつまり、自分は今まで閉じ込められていたのだと、知ったときだ。
空を見上げる。空には境界がない。
空においては、生と死すら隔てられていないかのように感じられる。この〈境界の無さ〉によって、空は私たちをやさしく抱きとめてくれる——そんな気がする瞬間もたしかにある。
けれどまた人は、空から迫りくる脅威に気づいて、思わず空を見上げる、といったこともあるのだ。
飛行体の黒い不穏な影。ジェットやプロペラの音。
空。頭上に広がるこの圧倒的な空虚は、「安全」という幻想を打ち砕き、私たちが実はまったく護られてなどいないこと、原理的に無防備な存在であることを、告知するものだ。
空を見上げることは恐ろしい。それでも、空を見上げることは大切であると思う。私たちは、見上げる存在であり続けたい。本当に恐ろしいのは、人々がもはや空を見上げなくなるときではないだろうか。
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沖縄に撮影に来たと言ったら「〈基地〉を撮りに来たんですか?」と尋ねられた。
僕たちは基地を撮りに来たのではない。BEACONがこれまで映し出してきたのは、いつも名もない日常の風景であったし、そのことは今回でもまったく変わりはない。けれど沖縄で撮影すれば、〈基地〉(あるいは〈基地〉的なもの)は自然に写り込んでしまう。それを意図的に避けないかぎりは。
美術が社会問題に言及するとき、美術は社会問題を自分のために「利用」しているのではないか?という疑いが、いつも起こる。この疑いを晴らすために、美術は社会問題にけっして言及しないという立場もあるし、逆に美術なんかどうでもよくなって、社会運動と一体化してしまうという立場もある。ぼくはどちらにも進めなかったので、この疑いの居心地の悪さをむしろ受けいれ、維持したいと思った。
主題化したいのは、意図的に造られながら自然なものとして提示されてきた現実、分断された日常的現実の様相である。一方には終わらない戦争と〈基地〉の沖縄があり、もう一方にはエキゾチックに観光化された沖縄がある。前者についてはシリアスな顔で議論すべきで、後者は無邪気に楽しめばよいとされている——けれどこんな分断は作為的だ! 要するにどちらも、その場所は「日本でありながら日本でない」と言っているだけなのだから。
BEACON 2015によって提示したいのは、沖縄特有の問題とか魅力ではなくて、沖縄という場所は今私たちがいるこの場所(岐阜、京都、etc.)と連続しているという、ごく当たり前の事実である。空を見上げれば、その連続は実感できる。見上げることは、世間から自分を切り離す行為でもあるのだが、そのことによって同時に、新しい連帯を求めること、改めて手をつなぎ合う行為でもあるのだ。
【会場に置いた解説文】 BEACON 1999 - 2015
1998年、京都。伊藤高志(映像)、稲垣貴士(音響)、吉岡洋(理論)、小杉美穂子+安藤泰彦(KOSUGI+ANDO、美術)からなる、5人のグループで交わされた対話の中から、BEACONは誕生した。始まりには「記憶」という問題、電子的なメモリ空間がますます拡大してゆく環境における、人間の記憶という問題があった。
記憶をめぐる私たちの思考を実体化する作品形態として、回転台の上で風景を撮影し、回転台の上でそれを投影するというシステムにたどり着いた。BEACONとはしたがって、人間的記憶の比喩であるとともに、このシステムの名前にもなった。何でもない日常の風景を、自然音を基本とする音響、それらに関わる言葉とともに提示することが、作品BEACONの原形となった。
最初の展示は1999年、名古屋の中京大学ギャラリー「C スクエア」において行われた。この時に2つの部屋を使って、一方にはBEACONを、もう一方には合わせ鏡と「記憶」をめぐるテキストから成る無限通路のインスタレーションを置いた。この最初のバージョンは、2年後の2001年に東京の インター・コミュニケーション・センター(ICC)における「テクノ・ランドスケープ展」の参加作品として再現された。
2004年には、大阪成蹊大学芸術学部のギャラリー「スペースB 」(京都)において、新たに映像を撮影し、展示場所との関係を深める試みを行った。この後6年間の休止期間を経て、2010年には京都芸術センター南ギャラリーにおいて、さらに新しい映像内容、展示場所との関係性の実験、テキストの朗読を音響に含めるなど、これまでにない形での実現を行った。
そして2014年、演劇やメディアパフォーマンスをも含む「パノラマ・プロジェクト」においては、短い期間を挟んで東京と京都において別々の作品を制作することになった。まず東京都台東区の「葬想空間スペースアデュー」で発表された作品BEACON 2014 mementoは、葬儀場という特別な空間の磁場に身を任せることで「死」に言及し、京都の元立誠小学校におけるBEACON 2014 in fluxでは、流れと生成変化のイメージをあつかった。BEACONに通底するテーマである「記憶」に、具体的な内容が充填され始めたと言えるかもしれない。
そして2015年、岐阜。7回目の展示となる今回のBEACON 2015 Look Up! みあげてごらんでは、希望、絶望、祈りなど様々な意味をもつ人間の「みあげる」動作に着目し、その動作を示す人びとの映像とともに、単純化された言葉のプロジェクション、そして天井に不穏な影を落とす、フェンスの中で回転するプロペラのインスタレーション、そしてBEACONの映像では沖縄、福島、そして岐阜の日常風景が交錯する。
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展示協力
1)リレーショナル • ポッド制作:廣瀬周士(美術作家)市野昌宏(デバイスエンジニア)
2)iPad 映像編集:塚原真梨佳 (映像作家)