この土日は日本記号学会大会だった。今年のテーマは「Bet or Die! 賭博の記号論」で、大阪大学の檜垣立哉さんに企画していただいた。
檜垣さんは傑出した哲学研究者であると同時に、人も知る競馬ファンである。だから大会は「哲学」と「賭博」から構成されていた。「哲学」の部分としては、土曜日午後の最初のセッションで、青山学院大学の入不二基義さんをゲストに迎え講演していただいた。賭けというのはいわば偶然との戯れであるが、偶然と必然とは対立しているのではなく、形而上学的レベルでは偶然の極は必然と重なってくるという話である。ぼくの思考パターンとはかけ離れているが、とても明晰で分かりやすく、面白く理解できた。理解できたというのは、話の内容だけではなくて、そういう話をする動機もよく分かったという意味である。
一般に抽象度の高い議論を聴くと、そんなものは現実離れしている、「スコラ的」だ、「神学論争」だと言ってバカにする人がいるが、それは近代人の悪しき偏見であって、スコラ哲学や神学に対して失礼である。人が抽象的な事柄、形而上学的な議論に夢中になる時、そこにはもちろん動機がある。そしてその動機はきわめてリアルなものである。その意味で形而上学的議論というのは現実離れしているどころか、現実そのものなのである。近代以前においては、神の存在はリアルな問題だった。だから神学論争は切実に現実的なものだった。では今は? 人は昔と同じように神の存在をリアルな問題として意識できなくなった。けれども神は死んだのではなく、個々人の心の中に隠れただけである。ただそれは伝統的に共有された神の姿をしていないので、私たちはそれを神だと思っていない。しかし、それだからよけいに、私たちは超越者に深く呪縛されている。これが現代である。
こういう超越的な呪縛を具体的な形で言語と突き合わせることができれば、形而上学的議論はリアルな思考となる。それができなければ無意味な言語遊戯である。超越的な呪縛は多くの場合、私たちが身体的な存在であることに深く関わった、何らかの問題の姿をとって現れる。ぼくの場合その呪縛は芸術、というより広く人間の表現行為の謎として現れているのかもしれない。入不二さんの場合、その呪縛はもしかするとレスリングと関係があるのではないかと思った。
「哲学」のパートはそれで終わって、次のセッションからは「賭博」のパートが始まった。賭博といっても特に「競馬」が主役で、檜垣さんが司会をし、植島啓司さん、競馬解説者の杉本清さん、『競馬ブック』の酒井直樹さんをゲストにお呼びして、熱い競馬トークが繰り広げられた。ちょうど「オークス2016」というレースが翌日曜に開催されるので、大阪大学の競馬サークルの学生たちも登場し、みんなでその勝敗予想をするというオマケのイベントもあった。日曜日のシンポジウムでは、京都精華大学の佐藤守弘さんが麻雀をめぐる物語について、また吉村和真さんにはパチンコ、パチスロ(とそのマンガ)について熱く語っていただいたが、全体として今回の大会は競馬に始まり競馬に終わったという感は否めない。
どの話も興味深く聴かせていただいたのだが、ぼく自身はギャンブル不感症で競馬もやらない。学生時代には友だちに誘われてパチンコや麻雀も少しは経験したけれども、ハマらなかったし、その後も自分から進んでやることはなかった。といっても、別にギャンブルを低く見ているわけでも、一律に危険なものだとか悪いものだとか考えているわけでもない。
ギャンブルを激しく糾弾する人というのは、たぶん自分もハマるのではないかという無意識の不安からそうするのではないかと思う。あるいは理解を示す人の場合でも、「私はやりませんが」などと前置きしてからしゃべる人には、やはりそういう不安が感じられる。ギャンブルについての研究を検索すると、それを一種のアディクションとして分析する英語文献が大量に見つかるが、ギャンブルを麻薬と同じような中毒を引き起こすものとして危険視する態度も、たぶん同様の不安が学問的言説として反映している現象だと思う。
今回の日本記号学会では、競馬を知らないぼくは確かに「置いて行かれた」感があったが、それでも聴きながら考えていたことがある。発言しなかったのは、ついに会長の重責を免れたので今回は傍観者的に座っていたかったのと、熱くなれないぼくのような人がシラけたことを言うと、せっかく楽しそうに盛り上がっているところに水を差すような気がしたからである。考えていたことのひとつは、人は(男は?)なぜギャンブルでこんなに盛り上がるのか、なぜかくも熱く語れるのだろうか? ということである。賭博はお金を賭けるけど、それだけが理由ではもちろんないと思う。冷静に計算しているようなギャンブラーでも、無表情な顔に反して心の中は激しく動いているのではないか(そうでなければ夢中になれるはずがない)。
そう考えると、これは人間の文明や文化を超えた、生き物としての何かが作用しているのではないかと思わないではいられないのだ。競馬で優勝した馬は、勝ったことを喜んでいるかどうかは分からない(馬の表情はふつうの人には読めないから)。でも馬は敏感で賢い動物なので、人間たちが喜んでいることはよく理解しそれに協調しているだろうと思う。それはともかく、賭博ということについて考える時、それは文明の産物であり、したがって人間だけの問題だということが暗黙の前提になっているような気がする。けれども、はたしてそうだろうか? 賭博の生物学的起源についての研究というのは存在しないのだろうか?
たまたま思い出しただけでまだ確認できていないのだが、だいぶ以前にどこかで、時々しか成功しない行動に関してのみ選択的に発火するニューロンが存在するという研究について読んだことがある。ふつうの学習過程においては、試みがある程度以上の頻度で成功し報酬がないと、その行動は定着しない。努力してもほとんど成功しないのだったら、ワリが合わないからである。けれども、例えば文明以前の狩りのような行動の場合、おそらくたいていは失敗していたのではないだろうか? ただ、たまに運よく成功するとその利益は大きい。こうした行動に人を駆り立てるには、偶然も作用しごく稀にしか成功しない行動にも、情熱をもって何度もトライするような行動が進化する必要がある。それが賭博の生物学的起源ではないのだろうか?
つまり賭博というのは、文明の病でも、魂の暗黒面でも、人間(男)の「業」(あるいはロマン?)でもあるわけではなくて、進化の上で適応的価値をもったひとつの行動ではないのだろうか、ということである。この推測の当否はともかく、そうした外部の視点がなかったことが、今回の「賭博の記号論」で唯一物足りないと感じた点だった。ぼくはふつうの意味での賭博には不感症であり経験もないけれども、生きることそれ自体の「賭博」的側面には強く共感している。だから、そうした外部の視点から眺めてみることで、賭博という問題の重要性が少し分かったような気がした。先ほどのニューロンの話については神経科学では常識なのかもしれないので、この点はもうちょっと調べてみたい。