今日の夜は、銀閣寺道を少し上がったところにある「アンダースロー」という地下の空間で少し話をする。ここは昔「CBGB」というライブハウスがあった場所で、今は三浦基さんの劇団「地点」の稽古場件アトリエとして運営されている。今日の演目はベルトルト・ブレヒトの『ファッツァー』という作品で、それが終わってから1時間ほどトークをすることになっている。
『ファッツァー』というのはブレヒトが1926年頃から書いていたらしい草稿の総称で、ドイツ語の原題を直訳すると『利己主義者ヨハン・ファッツァーの没落(Der Untergang des Egoisten Johann Fatzer)』となる。だいたいの筋書きは、第一次世界大戦の脱走兵たちがドイツのミュールハイムという街で、やがて社会主義革命が起こることを期待しつつ隠れ住んでいるのだが、仲間たちは主人公ファッツァーを頼りにすると同時にその利己的な行動に戸惑い、いろいろあるが結局みんな死んでしまうという、まあ普通の意味では絶望的なものである。
だが「没落(Untergang)」というドイツ語には「日没」の意味もあり、太陽が地平線に沈みゆくとき、それまでにない鮮やかな最後の光彩を放つというような連想もある。ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』冒頭では、十年の間山上で隠者として生きてきたツァラトゥストラが、沈みゆく夕日に向かって、自分もあなたのように沈みゆかねばならない、と語りかける。「こうしてツァラトゥストラの没落ははじまった("Also begann Zarathustra's Untergang.")」という文から、かれの物語が開始されるのである。日没が夜の始まりであるように、没落とは反転した世界の始まりである。
私たちもまた没落するためには、つまり没落によって開始される世界をスタートさせるためには、「絶望」がはっきりと誤魔化されることなく現れ、共有されなければならない。これこそが生きるために必要なことなのに、私たちはその機会を奪われている。この間栗本慎一郎さんの講義について書いた「人類は滅びた方がいい」でも触れたけれど、いまの世界はどこもかしこも「絶望禁止」で、感情的でセンチメンタルな茶番劇によって、絶望を集団的に覆い隠そうとするからである。そのもっとも近い例が「私はシャルリー」の大合唱であり、あの抑圧的な9.11後を思わせる「テロとの闘い」のスクラムだ。少しでも違うことを口にした瞬間、テロを容認するのか!というリンチに合う。「表現の自由」以前に、私たちには絶望する自由がない…。
はじめはブレヒトの「教育劇」(Lehrstücke)の考え方とか「異化」の概念について何かしゃべるつもりだったのだけど、この状況と、二日前から体調最悪でほとんど食事をとっていないので、自分が今晩いったいどんな話をすることになるのか、その時になってみないとわからないのである。