表現の自由を口にするとき、私たちはすべてフランス人である。
ここで言うフランス人とは現実の一国民のことではなくて、啓蒙の急進主義を極端にまで押し進めそれを突き抜けてしまおうとする精神、それを突き抜けることで新しい共同体を作ることを信じる人々という意味である。この意味では現実のフランス国民の多くはフランス人ではない。
表現の自由とは、単にどこかにあったりなかったりする何かではなく、またある国では許されているが別な国では禁じられているような何かでもなく、誰にとっても、常に今ここにあるひとつの課題として存在する。
誰でも自分が心から崇敬する対象が揶揄され、からかいの対象になることは不愉快である。現代人の多くは「ポリティカリィー・コレクト(政治的に適切)」なので、他者の信念や信仰を尊重するからというよりも、たんに厄介な問題に巻き込まれたくないという理由から、そうした振るまいを避ける。
でもフランス人はそれをする。それは他者を笑いものにしたいからではなくて、たとえお互いに不愉快なことを言い合っても、そして現実にはぜんぜん仲良くなれなかったとしても、それを言う権利は尊重し合うという関係を作り出そうとするからである。これが啓蒙の要諦であり、啓蒙主義から200年以上経ってもこの地上にまだほとんど実現されていない共同体の基盤である。
表現の自由はイスラームとまったく対立しない。自分たちの信仰がからかいの対象にされるのは誰しも不愉快に違いないが、だからといってイスラム教徒のほとんどはそれをした人々を殺害しようとはしない。相手がそれを言う権利も生きる権利も認める。なぜなら宗教の中には啓蒙の契機があり、そこに従うかぎりにおいてかれらもフランス人だからである。
殺戮は、表現の自由に対する宗教の挑戦などではない。根本的な問題は社会的・経済的な格差である。その鬱積した不満が宗教を偽装して爆発しているのである。問題をそうしたマテリアルなものとして認識することも啓蒙の精神である。「テロとの闘い」とか「表現の自由の擁護」とか、問題をもっぱら宗教やイデオロギーのレベルだけで観念的に定式化しようとすることが原理主義的なのである。