人類は滅びた方がいい。
先日横浜で、十数年ぶりに会った栗本慎一郎さんは、くり返しこう仰った。かくも愚かで残虐な種族は、この宇宙にこれ以上存在し続ける意味がない。そういうことだろうか。
実はぼくもそう思う。「進歩」とか「発展」とか「持続可能性」とか、どんなに耳障りのいい言葉でゴマ化しても、そういうことを言っている人たちの多くは結局のところ、自分や自分の属する党派の利益しか考えていない。為政者たちもそれに反対する人々も、口先のバトルで勝つことしか考えていないし、思想家や批評家の多くも、自分がその論敵よりいかに頭がいいかを示すことしか興味がない。科学も芸術も最後は金儲けに回収され、その他のあらゆることもやっぱり金儲けに回収される。こんな世界を造り出した種族はホント、今すぐ消え去った方がいいと思う。
人類は滅びた方がいい。
けれど、栗本さんに会ってこの言葉を聞き、ぼくは少しだけ元気が出たことも確かなのである。
たしかにこの言葉を額面通りに受けとったら、それは絶望の表明にちがいない。
でも、生きることはその根底においては絶望的であり、だから人が絶望的な気持ちになるのは自然なことである。現在の世界や今の日本がとりわけ絶望的であるわけではない。これまでの歴史のどんな時代も、多かれ少なかれ絶望的だった。
もしも現代特有の生き辛さがあるとすれば、それは、絶望を口にすることを禁じられているということである。誰もが、明るい未来、希望、復興、発展に結びつくことしか言ってはならない、という暗黙の言語統制のもとに生きていることである。ぼくがこんな文章を書いていること自体「人を教える立場にある者がそんなネガティヴなことを言うのはいかがなものか」などと文句をつけてくる人が必ずいる(そういう人も世の中のことを考えて言ってるのではない。自分がどっかの大学教授に文句言えるのが一瞬キモチイイだけなのである)。
口先だけの希望や未来を語る人々こそ、本当は世界が滅亡した方がいいと思っている。自分が本当はそう思っていることを知らないことが、真に絶望的なことである。
だからぼくは、心から絶望を語れるのはすばらしいことだと思う。逆説的に聞こえるだろうが、そうした覚悟の中にしか希望を見出すことはできないのである。人類は滅亡した方がいいと思いつつ、今晩何食べようとか、明日誰と会おうとか考えているのは、きわめて健康な、普通のことだと思うのである。
【補遺】
上のテキストを書いた背景を少し説明します。
自らの思想の集大成として昨年『栗本慎一郎の全世界史—経済人類学が導いた生命論としての歴史—』を上梓され、現在はほとんどの仕事から隠退して今後は書くとしてもネコの本しか書かないなどと公言されている栗本慎一郎さんを招いた特別講義が、室井尚さんによる「横浜都市文化フォーラム」の企画の一環として、横浜で始まった。先日その第1日目にお邪魔し、実に十数年ぶりに栗本さんとお話しすることができた。
若い人たちは、栗本慎一郎って誰?と思う人もいるかもしれない。栗本さんの経歴や著書については、ネットに情報があるので参照してください。一方、より年長の人たちは「ああ、あの人」と思い当るだろう。一時はどんな思想家よりもテレビや週刊誌に頻繁に露出していたし、明治大学の突然の辞任、衆議院議員、電脳突破党への参加など、世間を賑わす話題には事欠かなかった。
世の中には、マスコミに露出の多い知識人をそれだけで疑わしい存在とみなす偏見が蔓延している。またいくらたくさん本を書いても、それがいわゆる学術書的な文体や儀礼に則っていなければ、まともな学者ではないとみなされることも少なくない(逆にそうした定型に従ってさえいればどんな無内容な本でも「業績」とされる)。
これらは田舎臭い奇習である。有名だからチャラくていかがわしいと決めつける心の底には、本当は自分こそ有名になるべきなのにというルサンチマンがくすぶっている。そのことを意識できない知性の低さは、いくら学校的勉強が出来ても見苦しいものである。
また栗本さんは、いわゆる現代思想や批評・論壇といった「業界」からも一線を画してきた。当初は現状への根本的批判者として登場した思想家たちも、本が売れメディアに取りあげられてその地位が安定すると、自分や自分を支持するグループの維持拡大のためにだけ、その知的リソースを投入するようになる。つまり思想上の論争といってもその実は、思想という業界内部の派閥争いにすぎないから、そんなものにほとんどの人が関心を持たないのは当たり前なのである。
栗本さんは学問業界からも思想業界からも逃れ、タレントになり、政治家にもなったが、ついにはどこにも定住することなく、本当のノマドとして、過去30年間を疾走して来た。それらの活動を通じてかれが一貫して追求してきたのは、意味や構造にはけっして回収されない生命の働きであり、たとえ彼の唱える説が表面上はどんなに「トンデモ歴史」のようにみえようとも、その思想は現存するどんな著者のそれよりも明るく肯定的であるとぼくは考えてきた。
だから、かれが講義のなかで「人類は滅びた方がいい」などといくら繰り返しても、それはぼくにはまったく厭世的な諦観とは聞こえないのである。