昨晩は「京都銭湯芸術祭2014」の最終日、都築響一さんと対談するという催しがあった。会場そのものも銭湯を改装した「さらさ西陣」というカフェだった。銭湯という場にふさわしくマッタリした雑談もたくさんしたし、今の若い人はもう知らない昔のドラマ『時間ですよ!』も紹介したりしたが、ちょっとマジメな話もした。
マジメな話というのは、美術館やギャラリー以外のいろんな場所で美術展示をするということが、日本中いたるところで今行われているけど、これ、いったいどうなのか? ということである。作品発表の場が増えたという意味ではたしかに悪いことではないのだろうが、単純に喜んでいていいものなのか? 地域再生とか町興しとか観光客増加とかに寄与するという名目で、いろんな場所に現代アートを展示することが今はまだちょっと目新しいと思われているかもしれないが、効果がないと判断されたら、こんな流行はすぐに終ってしまうのは目に見えている。
いやそんなことよりも、こうした展示はいったいうまく行っているのだろうか? 人がどれだけ関心を持ち、観に訪れるかということ(つまり数字の上での成功)は別にして、そもそも、それらは美術展示として成功しているといえるのだろうか? ということである。たしかに、組み合わせが意外だとか、アートが見慣れた場を異化するとか、日常的な場の面白さを再発見させてくれるとか、そういう毒にも薬にもならないようなコメントはいくらでもできるだろうけど、そんなユルい評価だけでいいのだろうか? 企画者も出展者も本当にそんなことで満足なのだろうか? ということである。
智証大師円珍の生誕1200年で特別開扉があるというので久しぶりに園城寺を訪れたら、そこでも成安造形大学の作品展示が行われていた。「私の神さま|あなたの神さま」という展示企画の一部としてである。また京都大学の花山天文台ではギャラリーウィークとして、やはり天文台の内部空間に現代アートを展示するという催しが行われている。これはぼくのゼミ生である近江ひかりさんが美術展示を担当しており、今週と来週の週末3日間しか観ることができないので、昨日たまたま京都で会った写真家のヤマモトヨシコさんと一緒に観に行った。こんなふうに、特にこちらから求めているわけでもないのに、犬も歩けばアートに当たるくらいの密度で、この種の催しが行われているのである。
基本的には、どんどんやればいいとぼくは思う。でも、今のところそれらは美術展示として、あまり成功していないとも言わざるをえない。美術展示としてというより、ともかく何らかの「出来事」として、まだ強い魅力を持つに至っていないのではないかと思う。それは、個々の作品がつまらないとか企画のコンセプトがなってないとかいうよりも、もっと根本的なレベルにおいて、覚悟ができていないためである。だからやめてしまえと言いたいのではない。その反対で、これからもどんどんやればいいと思っている。むしろ、これからもどんどんやり続けていけるためには、どうしたらいいのかを考えたいのだ。
成功していない根本的な理由とは、銭湯であれ寺院であれ天文台であれ、そうした固有の「場」が、基本的にはまだ美術館やギャラリーのたんなる代替物としてとらえられているからである。たしかにそれらはホワイトキューブとは異なり、それぞれ強い特徴をもった「空間」である。そんなこと誰でも分かっている。でもそれらは依然として「空間」とみなされていることには変わりがなく、その空間に芸術が入ってゆくという理解の仕方にも変わりがない。ようするに「ハコモノ」なのである。美術館の部屋が抽象化されたハコモノであるように、銭湯や寺院や天文台は特殊性をそなえた、オルタナティブなハコモノなのだ。こうした基本理解が、そうした場での美術展示をもっと面白くする道を阻んでいるのではないかと思う。
銭湯も寺院も天文台もその他のどんな場所も、もちろん単なる空間、ハコモノではない。それらはすべて、さまざまな意味が歴史的に集積し、人間の固有の活動と切り離しがたく結びついている場所である。場所そのものが生き物である。だから、美術としてすでに意味が完成している作品が、単純にその中に入って行けるような空間ではない。無理やり入って行くことはできるかもしれないが、その場合は作品の周囲だけがある種「ミニ美術館」のような抽象空間になるだけであり、その場所をふつうに訪れるほとんどの人はそんなものに関心を持たない。それどころか、美術展示のために訪れた人たちですら、現代アート作品よりも銭湯そのものの方が、仏像や伽藍の方が、巨大な天体望遠鏡自体の方が、圧倒的に大きな迫力と美的魅力を持つことを、内心では感じてしまうのではないか。
固有の場に入ってゆくためには、「ホワイトキューブ」とか「コンセプト」とか、そうした抽象的な文脈に守られてきた「現代アート」というアイデンティティそのものを捨て去る覚悟をしなければならないし、その中にこそ、今の日本のような状況で、美術が生き続ける道があると思っている。もちろんそれは、たんに「分かりやすいものを作る」という意味ではない。「難解な現代アート」と「分かりやすいポビュラー文化」があるのではなく、そうした対立そのものを疑う余地があるということである。「現代アート」という制度の外にいる人たちは、たんに分かりやすい作品だけを好むと想像するのは大きな間違いだと思う。だから、たとえば銭湯に展示された作品の評価は美術家だけではなく、番台や常連客の人たちにも求めるべきである。そうしたちょっとした試みでも、銭湯がどんな場所であるかを探究するきっかけにはなるし、そのようにして、その場をたんに日常的に使用するだけでは分からない場の意味を明らかにすることは、そこに美術が関わる大きな意義だと思う。