ぼくは、努力というようなものをしたことがない。
これは今のような世の中では、言ってはいけないことなのかもしれない。不可能と言われることにあえて挑戦し、逆境をはねのけ、不断の鍛錬を欠かさず、挫折から何度も立ち上がり、最後まで希望を捨てない、といったことが生きることの価値を生み出すとされているからだ。とりわけ教育という分野ではそうである。そしてぼくはその教育者なのだが、本当に努力を知らないのだから仕方がない。
努力しない人間は生きる価値がないと考える人もいるが、生きることは価値とは関係がないから、これは誤りである。ぼくたちは価値があるから生きているのではなく、ただ生きているのである。
努力する、頑張るというのは、本当は自分が欲していないことを、欲しているのだと無理やり思い込むことである。だからそれは脆く、長続きしない。努力というのはおしなべて、無駄な努力なのである。
人生の内容を決めるのは「努力」ではなく「習慣」だと思う。歯を食いしばってする努力は一時的なもので、一発芸としては訴えるかもしれないが、長期的には人生に影響を及ぼさない。一方習慣とは比較的楽に出来ることを、持続的に、たんに機械的にやることである。苦痛も伴わないけれど快感があるわけでもない。たんに機械的と言ったのはそういう意味である。
世の中で努力の成果と呼ばれているものは、ほんとうはそうした習慣の結果にすぎないのではないか。ただ習慣ではドラマにならないから、人は努力というオハナシにしたがるのである。そして成功者本人も、たゆまぬ努力の成果ですね!などと褒められると別段否定するほどでもないから、ええまあ、などと答えていると、いつのまにか努力という物語にされてしまう。それだけのことだと思う。
ぼくはまた、どんなことでもすぐあきらめる。それは飽きてしまうからである。これも、たぶん先生たるものが口にしてはならないことだろう。あきらめようとする生徒を叱咤激励して、いつか成功するからがんばりなさい、というのが先生の役割とされているからである。
すぐあきらめることは、習慣が大事だという意見と矛盾するようにみえるかもしれないが、そうではない。習慣というのは毎日ついやってしまうものであって、がんばらなくても続くものである。望ましい習慣がつかないのはたんに縁がなかったからであって、努力が足りないからではない。
先日、大学時代の親友が亡くなった。それは進行性の病気で、現在治療の方法はなく、回復する見込みのないものだった。つまり死を待つしかないということである。そんな病ですらテレビ等で扱われると、最後まで希望を捨てず生き抜いた、美しい、みたいなお話にされてしまう。こういうのは本当に見るに堪えない。生への冒涜だと思う。
友人は、ある時あきらめたのだと思う。そのあきらめる瞬間の感じがよく分かる。ぼくは彼のように余命を宣告されたわけではないけれども、状況は基本的に彼と同じだからである。人生の基本的状況とは死を待つことであり、それは若い時であっても同じで、ただ歳をとるとそれがハッキリ現れてくるだけのことである。もちろん若い時に現れる人もいる。
治療法のない病におかされたり、障碍をもつことは、たまたま金持ちの家に生まれたり、希な才能にめぐまれていることと同様、たんなる偶然であり、努力によってはどうにもならないことである。自分の過失でも手柄でもないから、それ自体に何の意味もない。けれどもそういう意味のないことで右往左往させられるのが人生である。右往左往させられるのは仕方がないとして、あきらめるというのは、そうした条件に意味がないことを悟るということである。
昨晩、栗本慎一郎さんの特別講義の後、主催者の室井尚さん他何人かの受講生と中華街で夕食をご一緒し、栗本さんの食に対する率直な欲望に、あらためて圧倒された。高齢であり脳梗塞でもある栗本さんは、普通の意味ではそんな食べ方をしてはいけないのである。けれども、自分が本当に欲してる好物はちゃんと消化するし身体を痛めない、と彼は言う。
これは一見、貪食の言い訳のように聞こえるが(そして実際そういう面もあるのだが)、根本的な意味ではそうではない。ぼくも、本当に好きなものを本当に食べたい時にしか食べない。その理想においては栗本さんと同じだと思った。ふつうにみれば、ぼくは食は細いし肉食も少なく、それは健康のために努力しコントロールしていると思う人もいるようだが、まったくそんなことはない。
どうして多くの人は自分の身体が欲する以上に食べ、求めてもいない快楽を貪るかというと、それは努力しているからだと思う。本当はやりたくない仕事をガマンしてやっているために、本当は欲していない快楽を貪ることで、いわば身体が平衡をとろうとしているのである。ようするに、努力と貪欲とは同根なのだ。
本当は、夕べ栗本さんの講義で自分が話したことをまとめて書こうと思ったのだが、秋田に向かう新幹線の中で、なぜかこんなことを書いてしまった。次回は『意味と生命』の話をします。