当たり前だけど、文字は画像としても存在している。文字として読んでいるかぎり、文字が画像であることはあまり意識されない。だからスムースに読める。けれどもときおり、見慣れた文字(よく使う漢字やひらがな)が、突如として何か異様な形態に見えてきたり、「あれ、この字ってこんな形だったっけ?」と不思議に思うことがあるのではないだろうか? いや…ぼくにはわりとあるのだが、何のこと言ってるのかわからない、という人もいるかもしれない。
この経験はいわゆる「失読症(dyslexia)」と関係があるのではないだろうか?と、これまで何となく思ってきた。最近の脳科学ではどう説明されているのかよく知らない。失読症というのは、知能やその他の言語能力には異常が認められないのに、文字や単語を読むことが困難になる現象である。失読症は英語において特に顕著であり、研究も存在するが、日本語における実態はまだよく分かっていないらしい。だからいずれにせよ推測にすぎないのだが、この現象が起こる度に、次のようなことではないかとぼくは想像してきた。
文字を読むという能力はほんの数千年前に獲得されたものだが、数千年来誰もがずっと文字を読み続けてきたわけではもちろんない。現在のように大勢の人が、膨大な量の文字言語を、毎日のように読むという生活が出現したのは、文明史上、ごく最近のことである。何が言いたいのかというと、脳は文字言語の処理に最適化されてなどいないということだ。たぶん仮想の文字処理中枢のようなものを作って、けっこう無理をしてやっているのではないのか? そのおかげで文字は他の画像とは区別され、画像であることは意識されず、音声や意味に直接結びついた記号として迅速に処理される。とはいえ無理しているので、バグがあったり時々ダウンするのではないか? 文字と画像の区別は堅固なものではないので、文字と画像とが何らかの仕方でオーバーラップすると、知覚や認識のシステムが揺さぶられて、私たちはそれを面白く感じるのではないだろうか?
昨日、神戸の"Gallery 3"という画廊(この画廊は2年前に"Gallery 1"としてスタートし,毎年数字が増してゆく)に、花松れいなという人の「文字絵」作品展を観にいった。
「文字絵」と呼ばれるものはいろいろある。つまり、文字と画像とがどのように重なるのか、その仕方が異なるからである。伝統的には、「へのへのもへじ」みたいなのを文字絵と言うらしい。そういうのはつまり、文字の形を画像的要素として利用するということである。いわゆる「アスキーアート」もそのひとつだ。文字をあえて「形」としてみるということである。その場合、いわば文字が文字にみえないことによってそこに画像が出現する。
花松れいなの「文字絵」はまったく違う。彼女はまずひとつの漢字を何千も画面に整列させ、その漢字自体を複雑に色づけしてゆく。その結果、一面にひとつの漢字がびっしり並んでいるのだが、同時にそこにある画像が浮かんでくる。少し離れて見るとまるで、びっしり並んだ文字のカーテンの背後に何かが浮かび上がっているようにもみえるのだが、近づいてよく見るとそうではなく、色分けされたひとつひとつの文字そのものが、画像を作り出しているのである。複数のレイヤーがあるようにみえるが、実はないのだ。
ここでは、文字と画像とは排他的な関係にはない。文字はある意味で画像を構成する「ピクセル」として機能しているようにみえるが、そこでは文字ひとつずつが手書きで色分けされており、画像の機械的な構成要素としては扱われていない。そして文字(漢字)の意味は画像と強い関係を保っている。興福寺の阿修羅像に触発された作品『阿修羅』は3,400字の「阿」という文字で出来ているが、「阿」という字はエネルギーが強く、書くのにとても疲れたと作者は言う。そしてこの作品はもともと嶋本昭三の作品『あ』がきっかけになったものだ。
阿修羅や観世音菩薩、七福神、八仙人といった画題の選択だけをみると、花松れいなの作品は、呪術的な性格を持つ何かのようにきこえるかもしれない。でも実際のイメージを前にすると、そこに描かれている神様たちはむしろ、「かわいい」平面的なキャラクターであり、そして画題そのものは時々の状況に応じて選ばれていて、あまり重要ではないようにみえる。彼女の作品の呪力はむしろ、文字と画像との独特の関係にあるのではないか。文字の持つ「形」を利用するふつうの文字絵よりも、ひとつひとつの文字を色分けして塗る花松の作品は、むしろよけいに文字と画像との交替へと開かれてるように思えるのである。