「沈黙」は非在のしるしではない。語られないもの、語りえないものは、だからといって「無い」わけではない。はじめから存在していないとしたら、そもそも沈黙することすらありえない。だから「沈黙」とは、むしろ何かが存在していることの証しである。ようするに、沈黙には意味があるということを言いたいのだ。そのことを(沈黙せずに)こうして書くことは、何か矛盾しているようにも思えるけれど。
沈黙とは、世界の基底的な状態のことである。けれどもここで言っている沈黙とは、語ろうと思えば語れることをあえて語らない、というような意味ではない。あるいはいかに言葉を尽くしても語りえぬがゆえに、あえて黙っている、というようなことでもない。つまり「沈黙は金」といった意味での沈黙ではないということである。
そうした、語ることをあえて控えるというような態度は、とりあえず「相対的沈黙」と呼んでおこう。それに対してここで言っているのは、いわば絶対的な沈黙である。「絶対的沈黙」は、実際にそれが語られるか否かには、無関係である。言葉巧みにあるいは無様に語られても、あるいは何も語られなくても、そうしたあらゆる語り(あるいは語りの不在)の基底に、常に横たわっているような、ひとつの状態のことである。
たとえば、何かについて話すとする。作品についてでも、人生についてでもいい。うまく話せることもあれば、話したことを後悔したり、言葉に窮して黙り込むこともある。だが、話すことの有無や巧拙とはまったく無関係に、話している人の周囲には、常に絶対的な沈黙が支配し続けている。あってもなくてもいいものではない。むしろそうした「絶対的沈黙」があることによって、すべての語り(と相対的沈黙)が可能になっている。
「語りえないものについては沈黙するしかない。」という有名な文がある。ウィトゲンシュタインがどういう意図で書き記したのかは知らないが、多くの人はこれを「形而上学の終焉」、つまり「神さまについてああでもないこうでもないと言っても仕方ないから、もうオシマイ!」という意味で受けとった。でもよく読んでみれば、どこにも「オシマイ」なんて書いてない。ではどういう意味だろう? ぼくには、「沈黙こそが世界の基底的条件である」と言っているようにも読める。
あるいは「神は死んだ」(ニーチェ)という有名な文がある。これも、ふつうはやっぱり「オシマイ」的に解釈されることが多い(人はドラマが、華々しいクライマックスのある物語が好きだからだ)。けれども本当にそうだろうか? そもそも死んだ存在とは、死者とは何なのだろうか? 死者とは、去ってしまった者、非在の者ではない。死者とは絶対的に沈黙する存在者、沈黙しつつ(今ここに)臨在する者のことである。神が死んだとは、いままで存在していた神がいなくなったという意味ではなくて、神が「沈黙しつつ臨在する者」になったという意味なのである。
生きているかぎり、私たちは語る。そもそも生きていることは、多かれ少なかれ語り続けるということと、同義である。私たちはときには沈黙することもあるけれど、それは相対的な沈黙だ。だが、そうしたせわしない語りや相対的沈黙の基底には、「絶対的沈黙」がある。この絶対的沈黙とは沈黙しつつ臨在することであり、それが死者の領分だとするなら、死者は常に生者に重なり合って存在している。私たちはいわば最初から死者なのであり、絶え間なく語ることによってそのことを隠しているだけなのだ。
人は誰でも歳をとる。あるいは若くして病に冒され、動く能力、語る自由を奪われることもある。死を待つだけの絶対的な受動性——それは一見、何か重要な能力が損なわれ、壊れてしまった悲しむべき状況にみえるけれども、そうではない。語りから退くこと、語る力を奪われることが本当は何を意味するのかというと、それは、生者に重なり合っていた死者がしだいに現れてくること、世界の基底にある絶対的沈黙が顕在化してゆくということにほかならない。それは生きるというプロセスの重要な一面なのである。
「絶対的沈黙」について語ること(つまりこの文章)が、そもそも理屈に合わないのは知っている。ならば、どうしてこんなことを書いているのか? 広い意味での芸術活動というのは、こうした絶対的沈黙のすぐ近くにある営みであると、ずっと感じてきたからである。語りえぬものは、世界から完全に遮断されているのではなく、その近傍に何かを放射する。すべてを飲み込むブラックホールの表面で生じる「ホーキング輻射」のようなものである。あるいは、太陽そのものではなくその表面から立ち上がる炎、太陽フレアのようなものである。そうしたフレアを捉える活動が芸術である。
芸術について、ほとんどの人は語ったりしない。けれどもそれは、ほとんどの人が芸術とは無縁だということを意味するのではない。芸術は誰にとっても本質的に重要である。ほとんどの人は、ただ沈黙しているだけである。芸術の研究者や批評家は語るけれど、その語りは「絶対的沈黙」を言い当てることはない。語る少数の人も沈黙する多くの人も、絶対的な意味では、沈黙しているのである。芸術についての語りは巧みであったり、ぼくのように下手クソであったりするけれど、「絶対的沈黙」という基底的状態からすれば、まったく同じである。だから絶望的なわけではなく、むしろだからこそ、こうして語ることにわずかな希望が持てるわけである。