強さに護られることは弱く、弱くあり続けられることは強い。
逆説的なことを言って煙りに巻こうというつもりは毛頭ない。ただ、強さと弱さとを単純な対立として理解するかぎり、弱さの意味について考えても無駄だと思うのである。「弱さ」それ自体には意味なんてないからである。
弱者の味方をせねばならないと感じるのは、ヒューマニズム的、左翼的な心性の傾向かもしれないが、「弱者の味方」ができる者は、基本的に強い。あるいは少なくとも、自分は本当は強いはずだと信じている。「私は弱者の味方です」と言える人は、「私は弱者の味方ができるほどに強い」と言っているのである。
それに対して、弱さの意味だとぼくが考えるのは、それが強い者の基本的な「脆さ」を見抜きうるという点にある。強い者とは出自、幸運、制度、、権力、名声、財力、武力等々によって防護されているがゆえに強いのだが、しばしばその強さを自分自身の資質や能力の自然な結果だと誤認している。その点が救いがたく脆い。
弱さの意味とは、そうした自己欺瞞から自由でいられることである。だから「弱さ」は、「強さ」に必然的に伴う脆さとは無縁であり、その意味で強いのだ。弱くあり続けられることは、このうえなく強い。自然界においても、ミミズのように小さく弱い生きものが、何億年も存続している。ポイントは、弱いままで生き続けられるための工夫をすることだ。
日本は69年前、戦争ができない「弱い」国になることを選択した。そして今まで来たという意味では強かったのだが、その存続の工夫について自覚的ではなかった。それで今、この「弱さ」を振り捨てて表面的な意味で「強い」国になろうとしている。それは得策ではない。それは強さに護られて脆くなることを意味するからだ。
そうした滅亡の道を歩まないために、弱さの意味、弱くあり続けるための工夫について考えることは、無駄ではないと思うのである。