15年くらい前に書いた、「弱さ」についてのオンラインエッセイの再録。「弱さ」が落下の眩暈に関係することがクンデラの小説を引用しながら語られている。ちょっとかっこつけすぎ(笑)の面もあり、そして最終的には、「弱さ」を「ニーチェの狂気=人類からの撤退」に結びつけるクンデラの思考に共感している。このテキスト今は見られない状態になってるみたいなので、ちょっとこれを紹介してから、引き続き「弱さ」について考えてみます。
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映画化もされて有名になった、チェコ出身の作家ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』が文庫になった(千野栄一訳、集英社文庫、1998年11月刊)。
この作品は一言でいうなら、「弱さ」とは何か?という問題をめぐる物語である。
常識的には、「弱さ」とは比較の問題である。10万馬力のアトムに対して、5万馬力のウランちゃんは弱い。それと同じような意味で、動物は人間より弱く、女は男より弱く、日本はアメリカより弱いのだと、ふつう人は考える。
だが「弱さ」とは、本当は能力の比較といった問題ではない。「弱い」存在、その「弱さ」そのものは、実は能力を判定する「公正な」比較の場には、決して姿を現すことがない、何かなのだ。「弱さ」とは、不可視なのである。
動物の能力は人間の設定した基準によって、女の力は男の設定した基準によって、非西欧文化の質は西欧文化の設定した基準によって測られて、はじめてその相対的な「弱さ」が決定される。そして、このように相対的な「弱さ」が確定されると、強者は譲歩して(というか、ある後ろめたさを感じて)、弱き存在は、実は別な意味においてより「すぐれている」のだ、というようなことを言いたがる。そう言うことで、心理的な免罪を求めるわけだ。かくして、動物は人間より「純粋」だとか、女は根は男より「強い」とか、非西欧文化は西欧文化よりも「深い」とかいった言説が成立するのである。
けれども動物とは、人間的な知性や、それが設定した自然/文明の対立という枠組みの、まさに外部にいるからこそ、動物なのである。同様に、女は男の設定したジェンダー的対立の外部に、非西欧とは西欧の設定した文化基準の外部に存在する。
ではこのような存在の「弱さ」を、どのように定義すべきか? 「弱さ」とは〈言葉を持たないこと〉だと、この小説は言っているのだ。あるいは〈言葉が必然的に不完全になってしまうこと〉だと。
主人公トマーシュに対してテレザは弱い。トマーシュが男でテレザが女〈だから〉ではない。独身者トマーシュはプレーボーイで、たくさんの女と関係し、かつテレザとも深い恋愛関係をもつことができる。できるばかりではなく、そのことを説明する「言葉」を持つのである。他の女たちとの関係は「性愛的友情」にすぎないから、それはテレザへの「愛」を傷つけるものではない、と彼は言う。心と身体、愛とセックスとは別々であり、それらを変に混同しなければ、人生を楽しみつつ、うまく生きることができる、と。この雄弁さ、この歯切れのよさがトマーシュの「強さ」である。
テレザはそうした「言葉」を持たない。彼女はトマーシュへの嫉妬を、自分のみた夢の話によってたどたどしく、間接的に伝えうるだけである。彼女は、愛とセックスとを割り切って使いわけることができない「古風な」女であり、自分の身体の内部に、女の弱さを侮蔑する母親の声を、つねに感じながら生きている。
女と男のこの関係は、〈東欧〉と〈西欧〉、さらには〈チェコスロヴァキア〉と〈ソビエト〉の関係へと重ね合わされてゆく。1968年の侵攻の直前、当時のチェコ共産党の第一書記ドゥプチェクは、連行され、拘留され、射殺をほのめかされ、そしてモスクワに連れて行かれ、ブレジネフと引き合わされ、ひき続き国家元首となるよう命じられた
そのあと打ちひしがれて帰国し、打ちひしがれた国民に話しかけた。とても打ちひしがれていたので話すことができなかった。テレザはけっしてドゥプチェクの一つ一つのセンテンスのあいだの、あのすさまじい間(ま)を忘れないであろう。・・・たとえドゥプチェクのあとに何も残らないとしても、ラジオの前に釘付けになっていた全国民の前で、息ができずに、口をパクパクやっていたあのすさまじい間(ま)、その間(ま)はあとに残るであろう。それらの間(ま)の中に、彼らの国にふりかかったありとあらゆる恐怖があったのである。(『存在の耐えられない軽さ』、集英社文庫、94頁)
(これはよその国の歴史だろうか? ラジオの前で、聞き取りにくい敗北の知らせを耳にしたのは、はたして彼らだけだっただろうか?)
「弱い」とは、言葉によってではなく、むしろ言葉の欠如によって、つまり沈黙によってしか、語ることができないということである。
人は、何によって「弱い」存在となるのだろうか? テレザが弱いのは、彼女が「女」であり「チェコ人」〈である〉からではない。そうではなくて、「弱さ」をありありと見、「弱さ」に魅了されてしまったからだ。弱者の国、「センテンスの真ん中で息をつくために口をパクパクやる人たち」の国に属するものとして自分を感じること・・・「彼女はその弱さにまるでめまいがするかのように引きつけられた」。「弱さ」をありありと見てしまうこと、それによって人は弱い存在へと運命づけられる。
強い者とは、沈黙の中にある弱さを見ることができない存在のことである。それは利点なのか、愚鈍なのか?
客観的にみて、どんなに悲惨な状況にあったとしても、あらゆることが言明可能だと考えている人は、基本的に強い。強い存在は弱い存在を理解できない。それに憐れみを感じることもあるが、同時にその沈黙に苛立つのだ。強い者はいう。「なぜはっきり言わないのか?」「なぜ割り切って考えることができないのか?」「なぜ自分のことは自分の中で処理できないのか?」云々。
弱さに魅入られたテレザは、自分よりもさらに弱い存在、犬のカレーニンを可愛がる。犬は動物であり、動物はエデンから、堕落以前の「牧歌」的状態から来た。かつては、人間が動物と接することの意味は、それによって楽園とのわずかなつながりを保つことにあった、と作者は言う。
だが現代では、動物とは機械である。動物が機械であるということは、われわれ人間の中の動物的部分とされている「身体」もまた、機械にすぎないということだ。心と身体、愛とセックスとを割り切って説明する現代的態度の、根本のところには、デカルトのこの動物機械論がある。精神vs物質。その割り切りのよさ。これがもたらす「強さ」は、現代文明そのものの「強さ」である。誰が、そこから逃れることができるだろうか?
だが、晩年のニーチェはそこから逃れた。この小説の終わりの場面で作者は、テレザが切り株にすわり、癌にかかったカレーニンの頭をなでている光景を、1889年、ニーチェがトゥリンのホテルから外出する光景へとつなげてゆく。
・・・向かいに馬と、馬を鞭打っている馭者を見る。ニーチェは馬に近寄ると、馭者の見ているところで馬の首を抱き、涙を流す。・・・それはちょうど彼の心の病がおこったときだった。しかし、それだからこそ、彼の態度はとても広い意味を持っているように、私には思える。ニーチェは、デカルトを許してもらうために、馬のところに来た。彼の狂気(すなわち人類との決別)は馬に涙を流す瞬間から始まっている。(前掲書、363頁)
「弱さ」とは最終的に、「人類との決別」へと向かう。それは「人類が歩を進める『自然の所有者』の道」(同上)から退くことである。「進歩」から、「支配」から退くこと・・・。
誤解されては困るが、「弱さ」が究極的に自然の所有から退くということは、いわゆるエコロジーや環境保護とは関係がない(エコロジーは言葉を持たないどころか、きわめて雄弁ではないか!)。別な言い方をすれば、弱さへの道とは、沈黙に対する感性を鍛えることだということもできるだろう。だがそうした訓練は、現代では本当に困難である。人類とその文明の「主流」から退き、弱さの国へと歩み入ること——それは、かつては宗教や哲学、芸術に課されたひとつの役割であった。今は、そうした名前すら、弱さの陣営からは剥奪され、空洞化されている(つまり、宗教も哲学も芸術も、割り切ったもの、解説可能なもの、雄弁なものしか認められていない)。
それでもなお、「弱さ」へと誘惑すること——この小説を語りつつ、ぼくがいまあなたに対して試みているのは、たぶん、ただそれだけのことなのだろう。 (1999年1月13日)