「弱さ」について考えている。「弱さ」は美学的であると同時に政治的な主題、そこにおいて美学と政治が同じものになるような主題のひとつである。
たとえば今「集団的自衛権」の是非が云々される中で、「平和」「戦争をしない」という理想に訴えてそれに反対する主張の多くが——共感するか否かは別として——基本的に「弱く」響くのはなぜか?という問題がある。それはそうした主張が、日本が外国からの直接的攻撃に対する防衛以外には戦力を行使しない「弱い」国となることを選択しているからではない。平和主義の基本的な「弱さ」とは、その反対に「強い」国を目指す「強い」主張が一様に拠り所としている、ある感情的な機制を持っていない点に起因している。「強さ」を生み出す感情的機制とは何だろうか?
ほとんどの人間は、一個の動物としては平和を好む(動物が破滅的な争いを避けるのは生き物としての自然だから)存在である。右翼やタカ派の政治家でも、家に帰れば家族を大切にし、友人たちとむやみに争うこともしない。個人的生活の圏内では、彼らは他人の痛みを思いやることもできるし、争いのない世界の大切さを心から感じている場合も少なくない。平和主義者の主張の「弱さ」は、かれらがしばしばそうした対立する人々のことを、そもそも平和の大切さを知らない、暴力的で悪魔的な本性を持った「敵」として想像してしまう点にある。
だがこれでは、平和主義者に勝ち目はない。なぜなら、強さの支持者たちは平和主義的な心情がどういうものか、知っているからである。だから彼らは「平和が大切だ」と言われても、「そんなことは分かっている」と見下すことができるのである。「平和はたしかに大事だが、この現実を前にしてそんな甘いことは言っていられない。未来において本当の平和を実現するためにも、いまは『強く』ならなければならないのだ」と反論するだろう。彼らの眼には、「平和」「戦争反対」を唱える主張はことごとく、素朴で青臭い理想主義と映るだろう。
では「強さ」の支持者たちはなぜ、自分たちは「青臭く」はなく、平和主義者よりも「大人」であると信じることができるのだろうか? それは、彼らが自分たちの仕事を、けっして好きでやっているのではなく、崇高な義務として遂行しているのだという意識を持っているからである。誰だって戦争は好きではない、けれども国家の安全や正義の実現のためには、やらなければならないときもあるのだ、というのが彼らの根本的な心情である。過去にもそうした心情からやむを得ず戦った英霊たちがおり、だから自分たちも彼らの崇高な義務を引き継がなければならない。
過去の戦争における残虐な殺戮行為について、同じ人間がなぜそんなことができたのだろうか? というのは素朴な問いである。それに対して「強制されて仕方なくやったのだ」という説明がある。殺さないと自分が殺されるから、やむをえなかったのだと。だが歴史的事実はそれを支持しない。戦時下において、人は殺戮行為を「イヤイヤ」やっていたようにはどうしてもみえない。そこで次の説明は「戦争という非常事態は人間に理性を失わせ、動物的な残虐性を露出させるからだ」というのがある。だが歴史的な大量殺戮行為についての記録は、その当事者たちが狂気のうちに殺し続けたのではなく、むしろ理性的に、淡々と実行していたことを示している。そして動物は(人間の内なる動物も含め)過剰な残虐行為への嗜好は持たない。
平和主義的な主張が「弱い」のは、戦争のような非常事態において人殺しをする人間を、狂った悪魔のような存在として想像してしまう点にある。だが彼らが平気で人殺しができたのは狂気にかられていたからではなく、むしろ過剰に理性的であったからである。つまりそれは「誰だって人を殺したりしたくないが、個人的心情を越えたより大きな目的のためには、誰かがこの汚れ仕事を引き受けなければならず、その崇高な義務を私はいま果たしているのだ」という自覚である。自分自身を何らかの超越的存在——神、国家、正義、etc.——の道具であるかのように感じるこの感情的な機制は、冷静でありながら、抗いがたい高揚感を伴っている。これが、戦争やすべての組織的殺戮行為を可能にしている心的なエンジンである。
とはいえ、自分を何か個人を越えた目的の道具として感じること——そのこと自体はけっして邪悪なことではない。それどころか、こうした「崇高」の感情性は、医師や警察官、消防士など、苦痛や危険を伴う公的な仕事を遂行するためには不可欠なものである。いやそればかりでなく、ぼくが今こうして文章を書いているという行為ですら、これらのことを好きで考えたり書いたりしているわけではなく、また自分のために書いているわけでもなく、むしろ何か自分を越えた目的のために書いているという側面がある。それがなかったら、そもそも読まれるにあたいするテキストを書くことなどできないだろう。
だが、崇高の感情性というこの心的エンジンには安全装置が不十分であり、しばしば暴走するのである。「平和」を志向する思想はけっして青臭い理想主義などではなく、人類が蓄積してきたもっとも深い叡智から発するものだとぼくは信じており、日本国憲法九条の思想もそうした信念から理解している。けれども、「強さ」を生み出すそもそもの心的機制、すなわち人殺しがなぜ崇高な義務になるのかというメカニズムに対する洞察がなければ、平和主義はいつまでたっても「強さ」の主張を解体することはできないであろう。