学生から「ゲバゲバ」とはどういう意味ですかと聞かれて、それはドイツ語の「ゲバルト」(力、暴力)に由来する「ゲバ」が実力闘争をする学生運動に関連した言葉(「ゲバ棒」「内ゲバ」等)に使用され、一種の流行語となって、人気テレビ番組「ゲバゲバ90分」のタイトルにもなって広がって云々、とマトモな説明をしてしまったが、これを見たら分かると言って昔のヒット曲「老人と子供のポルカ」の動画を見せた。
この曲について普通の解説をしても仕方がないが、とにかく1970年代にはこんな歌がゴールデンタイムの歌謡番組でお茶の間(今はほぼ絶滅した家庭空間)に流れていたことは重要である。これは社会に横行する「ゲバ」(学生運動)、「ジコ」(交通事故)、「スト」(ストライキ)を、社会から退いた老人とまだ参入していない子供たちが告発する歌だと語る人が多かったが、歌詞を聴くと「ヤメテケレ」と言っているだけで告発などしておらず、曲調はひたすら明るく楽しい。この歌のポイントは社会批判などではなく、老人と子供とのある種の重なり合い、並行性のようなことだと思う。
成長という観点からみるなら、「弱い」ものとして現れるのは子供と老人である。社会は成人男性に都合良く設計されているので、子供はそこでは成人という範型にまだ達していない、未分化で不定型な存在とみなされ、また老人はそうした範型が劣化・摩滅した存在としてみなされる。もちろん女性も同様である。強い者が弱さを認識するには(子供に戻るのは不可能だし女になるのはハードル高いので)、老人になるのがいちばん容易である。この前の記事で触れたミラン・クンデラの小説では、女遊びのたえないトマーシュに「ぼくにどうして欲しいんだい?」と尋ねられてテレザは答える。「あなたに歳をとってほしいの」。そのことによって弱くなってほしい、とテレザは言いたかったのだ。自分のように弱くなってほしい、と。(もっとも現実には死ぬまで「強さ」に固執する老人たちによって世の中は荒廃しているのだが。 )
だが「成長」とは、生命を考えるためのひとつの観点にすぎない。成長という観点にとらわれることなく考えるならば、仕事や生殖活動の可能な成人期は人生の目的ではないし、もっとも重要な時期ですらない。子供は成人になるために存在しているのではなく、老人は用済みになった成人ではない。成長とはひとつの偏見であり、それから自由になるならば、生命はその各段階においてそれぞれ独特の仕方で完成していることがわかる。そして子供時代と老年期が並行的なプロセスであることがわかるだろう。幼年期の不定型性が、より明確な輪郭を持つその後の段階への移行期であるように、老年期はやはり何か新たな段階への移行期なのである。
「弱さ」とはこの両者——幼年期と老年期——に共通する性質である、と考えてみたい。弱さとは未分化なもの、幹細胞的なもの、これから到来する時間へと開かれた柔らかさなのである。