これまでのぼくのこのブログには似合わない、なかなか過激なタイトルではある(笑)。
きっかけは、いまパリ大学に留学している大久保美紀さんが教えてくれた、秋葉原の新ビジネス「ソイネ屋」なる話題だ。彼女の記事はこことここにあります。簡単にいうと、一定の時間女の子が添い寝してくれるという、それだけのサービスである。それ以上でもそれ以下でもない。というか、「それ以上」は固く禁止されている。ぼくはいわゆる「風俗」的なものは苦手で、若い頃から一度も行ったことも行きたいと思ったこともないのだが、これなら大丈夫だろうかと思いつつまだ体験してはいない。
この「ソイネ屋」のウェブを見ると、「人肌を感じてただゆったりとした時間を過ごせます。添い寝というシンプルで究極の癒し」云々とある。なるほど、日本の秋葉原はまさに世界の実験場だな、ついにこんなリラクゼーション・サービスまで出たか、と思う人もいるかもしれないが、実はこれには元ネタがあり、それはニューヨークの大学生であるジャクリーン・サミュエルという人が始めた"Professional Cuddler(抱擁サービス)"というものだ。
しかし元ネタとはいっても、ニューヨークと秋葉原ではかなりの違いがある。サミュエルさんが考えた商売のポイントは、ようするに、セックスの意味を伴わない抱擁が、心理的な癒やし効果をもたらすという発見である。「発見」とはいえまあ、考えてみればあたりまえのことである。そこには、あらゆる身体接触が過剰に性的に意味付けられている現代社会への批判という側面もあり、性的でない抱擁とは、いわばより根源的な「自然状態」への回帰を意味している。
それに対して秋葉原の添い寝サービスにおいては、ポイントは抱擁ではなくむしろ非接触の臨在(さすがハイテク日本である)であり、身体コミュニケーションにおける「自然状態」への回帰などといったものからはほど遠い。お店のWebサイトをみてもエロティックなイメージが強調されており、一般の風俗的サービスとあまり印象は異ならない。にもかかわらず、これを教えてくれた大久保さんのブログにあるように「へいわなニッポンの癒しサービスである「添い寝」に、性の匂いを嗅ごうとするのは間違い」なのである。ぼくにもそう思える。たとえ実際には「添い寝」の看板の影で売春が行われていようとも、そう思えるのだ。それはなぜだろうか?
日本近代文学の読者であれば、美しい娘がただ横で寝ているという状況を聞くと、川端康成の『眠れる美女』を思い起こすかもしれない。たしかに、横に寝ているだけで、何もできない(してはならない)という点では、よく似ている。この物語においては、横に眠る娘はその素性もそのようにしている事情も、最後まで謎である。川端にはまた『片腕』という短編もあり、そこでは女が男に自分の片腕を貸し与えるのであるが、男はその片腕を愛撫しつつ、その持ち主である「女そのもの」との埋められない距離を思う、というようなしんきくさいお話なのである(30年くらい前に読んだ印象なので間違ってたらスミマセン)。
ようするに川端の物語においては、欲望の対象との「距離」が問題なのだ。セックスとはようするに、まず対象との距離を前提し、それを努力や工夫によって克服したり運命に阻まれたり助けられたりしながら、最終的には対象との合一に至る(通俗的ラブストーリー)、あるいは原理的に至りえないことを発見する(前衛的ストーリー)という、いずれにせよ単純な物語を反復することにほかならない。秋葉原の「添い寝」において「不穏」なのは、そうした物語が機能していないようにみえる点である。「ソイネ屋」のサイトを見ればわかるように、あなたの側に横たわる娘は、お金を払えば見つめ合ったり、膝枕をしてくれたりする(3分間単位で!)。でもそれは、最後にはセックスに至る前段階ではなく、言い換えればそこには「距離」というものが、最初から存在していないのである。こんな「添い寝」を、「川端」的想像力では逆立ちしても描写できないことであろう。
では、結局のところ「添い寝」の何が気になるのだろうか? それは「添い寝」が、一見セックスを示唆するようにみえながら、実はセックスそのものの自明性を掘り崩しているように思えることではないか。 秋葉原の「添い寝」が気になるのは、セックスを排除したリラクゼーションやセラピーとは異なって、むしろセックスを成り立たせている物語それ自体を溶解させ、あたかもセックスとはいかなる目的でもなく、それどころか、セックスとは本来それとは別な何かの比喩にすぎないのではないか?とすら思わせる点にある、と言えば言いすぎだろうか。この「別な何か」を、簡単に「死」と言い切ってしまってはあまりに拙速であろうが、少なくともセックスがそれ自体では目的として完成せず、むしろセックスとはセックス以外の何かを意味するがゆえにセックスたりえているのではないか?という脱構築的問いを喚起する点は重要であろう。
たしかに「添い寝」は、なかなか深いね。それがセックスに回収できないということだけではなく、こんな短い文章のなかに、ぼくに「セックス」という言葉を、タイトルも含め15回以上も使わせてしまう(笑)という一点だけをとってみても。