アートにおける「政治的なもの」には、2つのレベルがある。
ひとつは、作品が特定の政治的立場を表明していたり、ある政治的メッセージを明示的に伝えているというようなレベルである。多くの場合作品が「政治的」と呼ばれるのはこのレベルにおいてである。そのメッセージは現政権への批判、マイノリティーの権利主張、社会的暴力の告発、反グローバリズム、エコロジー、フェミニズム等々さまざまであるが、それらのいくつかを組み合わせたり、そこに作家の個人的体験を織り込んだりしていくらでも複雑化することができ、それによって単純な政治的発話ではないもの、つまり「アート作品」らしいものにすることができる。
こうしたレベルの「政治的なもの」は、いわば社交のために必要なのである。それはちょうど、たくさんの人々が集まるパーティのような場所でお互いにおしゃべりをするためには、その人の所属や肩書きが必要なのと同じことだ。もちろん所属や肩書きだけでその人が本当はどんな人間かなど分かるものではないが、しかしまずそこから切り出さないと、ふつうは会話が始まらない。それと同じなのである。
だからとりわけ国際的な美術展のような場所では、作品が特定の政治的な振るまいを見せることはいわば「名刺代わり」に必要とされるのである。どんな作品を招待して展覧会全体を構成するかを考えるキュレーターにとっても、作品が持つそうした「政治的なもの」は、展覧会全体を意味付けるために重要であり、主催者やスポンサーに対して展覧会の社会的な意義を説明するためにも有効なものである。
ところで日本のアート界においては一般に政治的意識が乏しく、強い政治的主張をもつ作品は敬遠される傾向があると言われるが、それは別に日本人が政治的にナイーヴであったり日本という国が内向きで閉ざされているためではない。脱政治的なみかけを共有することによる独特の「社交」が成立しているだけである。ところで、脱政治的な見かけほど政治的なものはない(ナチズムにおいてはあらゆるものが脱政治化された)。だから日本のアート界を政治的に素朴とみるのは間違いで、むしろ強烈な単色の政治的メッセージに覆われている、と理解すべきなのである。
ここから、アートにおける政治性に関するもうひとつのレベル、レベル2の「政治的なもの」について考え始めることができる。
それは、作品がその実際的なあり方や振るまいを通して、共同体や国家に関して何を言っているのかというレベルである。これは先ほどのレベル1の「政治的なもの」の存在と矛盾しない。レベル1においては作品は政治的メッセージの伝達手段(ヴィークル)であった。それに対してレベル2の政治性は、作品がレベル1のメッセージをどのように伝達しているかに関わる。アート作品は多くの場合、政治的メッセージのヴィークルとしてはあまり効率的とはいえないのだが、作品が政治的メッセージのヴィークルとしてどのように失敗しているか、がレベル2の政治性を構成する。
アドルノは、作品がモナド的に社会を反映しているという点に、そうした深層の政治性を見ていた。ぼくが上に述べたことも、言い方が違うだけで結局は同じことかもしれない。ぼくは、アートの政治性をもう少しプラグマティックに解釈したいと思っているので上のような言い方になるだけかもしれない。けれどもそれでもまだ観念的と思う人もいると思うので、具体的な例をあげて説明するなら次のようなことだ。
ポーランド出身のアーティスト、クシシュトフ・ヴォディチコの有名な作品に「ポリスカー」というのがある(京都国立近代美術館も所蔵していて、2003年の「京都ビエンナーレ」でもお借りして展示した)。これは一種の車(ヴィークル)で「ホームレスのためのシェルター」だと明言されているので、明らかにこの作品はホームレスという「問題」を産み出した現代社会や都市について言及していることがわかる。これはレベル1の「政治的なもの」である。それはこの作品を有名にし、さまざまな展覧会を通じて多くの人がそのイメージを共有することに役立っている。
だがよく考えてみると、このポリスカーという「ヴィークル」は、ホームレスという社会問題を解決するためにはまったく役に立たない。実際にホームレスの人でこのヴィークルをみて、「これは便利だ、欲しい」などと思う人は少ないだろう。たしかにこの作品によって人々の注意をホームレスという問題に向けて喚起することにはなるが、それも最も効率的な注意喚起というより、ある独特の仕方における喚起である。そしてこの、実際的な役立たなさや非効率性の中にこそ、ポリスカーという作品における深層の「政治的なもの」が存在しているのである。作品からレベル2の「政治的なもの」を析出し、それに言語的な表現を与えて共有可能にするのが、批評の仕事である。
作品も人間と同じで、この世界の中で生きてゆくには社交が必要である。だからレベル1の「政治的なもの」のように、明示的にすぐそれと分かるメッセージを持つことは、もちろん悪いことではない。しかしながら、バーティのような社交だけでは人生は空しい。というよりそもそもパーティとは、自分にとって重要な人と出会い、その後にその人と深い交わりを持つためのきっかけとして必要なだけなのである。その意味では、世界中で数え切れないビエンナーレ、トリエンナーレなどのアートイベントばかりが盛んな今の時代は、いわばパーティ過剰であり、人々は社交に明け暮れ、疲れきって鬱状態になっているのである。