はじめて聞いた時からなんとも言えず嫌な感じのする言葉というものがある。最近では(というか随分前から広がってはいるが)「コンプライアンス」というのがそうだ。それ以前に「ポリティカル・コレクトネス」というのもそうだったが、「コンプライアンス」の方がタチが悪い。それは、多くの日本語話者にとってはじめて聞く英単語だからだ。
「ポリティカル・コレクトネス」の方は、「ポリティカル」も「コレクト」も中学で習う英単語だからまだ馴染みがあるだろう。何となく意味が分かるような気がするし、「政治的適切さ」という訳語もある。近頃では「ポリコレ」と揶揄する言い方もでてきて、ちょっとは距離をとって対することができる。
それに対して「コンプライアンス」の方はほとんどの人は耳にしたことがない英単語だし、訳語もない。こういうのは気をつけなければいけない。意味のわからない英語は日本語の文脈の中では呪文のような働きをする。理屈ではなく魔術によって人を支配することを可能にする。だからそういう言葉を聴くと「あ、また何か邪悪なものが入ってきたな」と思う。これがこの言葉の与える「なんとも言えず嫌な感じ」の原因である。
意味は調べれば分かるではないかと言われるかもしれない。コンプライアンスというのは、その時の社会規範を遵守するということである。たとえば最近、大企業や公的機関でお中元やお歳暮などの儀礼を廃止するというようなことがある。そうした贈答が取引や公的活動の公正性を損なうという理由からである。だが、この意味は本当はスジが通っていない。
昔は、伝統的な贈答儀礼は社会的な関係を円滑にする行為だという共通認識があった。もちろんそれが公正性を損なう場合もあることは認識されていたが、贈答をどの程度許容するかは個々の現場判断に任されていた。贈答がもたらすこともある不公正というマイナスと、それを禁止することによる社会関係の円滑性の毀損というマイナスとの、どちらが大きいかは一律に判断できないからである。
だが現在では、それは昔のことで、今はコンプライアンス意識が高まったから、贈答は一律に禁止した方が良いという社会規範が存在し、それを遵守しなければならないのだ、などと言われる。一見もっともらしいが、よく考えるとこれは同語反復である。「今は意識が高まった」というような客観的事実はもともとなく、「コンプライアンス」という呪文の元に贈答儀礼を一律に禁止したから、あたかも意識が高まり新しい社会規範が生まれたかのように見えるだけだからだ。つまり、コンプライアンスの「意味」なるものは、まったくスジが通っていないのである。
コンプライアンス(complience)という英語は「コンプライ(comply)」という動詞の名詞形であり、コンプライというのは、何かの要求とか必要性を「充足する」という意味である。語源的にはラテン語で「充す」ことを意味する「コンプレーレ(complere)」という動詞に由来し、別な英語の「コンプリート(complete)」も同じ語源を持つ。問題は充足すべき「何かの要求・必要性」が、本当に多くの人の同意する社会規範として成立しているのかどうか、という点である。
贈答儀礼は大企業や公的機関では廃止される傾向にあるが、個人商店や中小企業では依然として行われている。人間同士の顔が見えるそうした実際的な場面では、贈答は不正につながる危険もあるが、全体としては相互利益の方が多いという健全な直観が共有されているからである。周知のごとく日本では大企業よりも中小企業の方が圧倒的に多い。2016年の調査では企業数で99.7%、従業員数でも68.8%である。つまり、贈答の禁止は現代の常識にはまったくなっていないのであり、コンプライすべき現代の社会規範なんて初めから存在しないのである。
「コンプライアンス」のような呪文による支配は、人々がそれに納得することによってではなく、それに違反する者が孤立し、それが懲罰として機能することによって拡大する。つまりその権力は多くの人々が「納得はしないけど従わないと厄介だ」と感じることにによって支えられているのである。だからこの呪文を解くためには、簡単にいうと現場の私たちの多くが従わなければいいのである。呪文はその力を信じない人々には効かない。
だからそういう通達が上から来ても、ハイハイと聞くだけ聞いておいて、あとは適当に現場判断をすればいいのであるが、まあ実際にはそんな簡単には行かず、現場の末端の私たちも不安に煽られて疑心暗鬼になりがちだし、スパイがいたり裏切り者が出たりして面倒なのだけれども。少なくとも「コンプライアンス」という呪文の力に心の底まで支配されないように、しょうがない時には従うフリをしながらも心の中では「バーカ」と思っていることが大事なのではないかと思うのである。