急にまたブログを再開したりして、どうしたんですか?と言われた。そういえばこれもあったな、と思いついただけで、特に理由はない。まあ強いていえば寂しいからかな。
ところで来週(9月28日水曜日)から、同志社大学で「資本主義の美学」を開講します。現在レギュラーで行っている講義は、前期の京都精華大学「日本の美学」と、後期のこれしかない。
去年から始まった学部の講義で、大きな声では言えない(言ってはいけないらしい)が、同志社大学の学生以外の聴講も認めている、というか本当は大歓迎なのだけど、大きな声では言えないらしいので、「黙認」ということにしている。もともと京都大学文学部で講義していた時からの方針で、大学での講義というものに関するぼくの根本的な考え方から出てきていることだから。
要するに大学の講義は基本パブリックドメインだということだ。正規の学生は授業料を払っているのにおかしいではないか、という人もいるが、授業料はその大学の卒業資格や学位を取るために払っているものであって、講義は特定の対価に対して与えられるサービスではない。大学が講義を提供するのは公共的な活動だと思う。だからネットなどではその考えを公表してきた。
こんな考えが今の時代に合わないことは知っている。しかしぼくはそもそも「今の時代」なんて認めていない。今の時代に生きていないことが今の時代に自分が存在する意味であるような気がする。こういう方針で三十年講義してきたが、これまで大学から文句を言われたことはない。でも同僚の教員たちからは何度か「大丈夫ですか」「やめた方がいいよ」と言われたことがある。つまり忖度、自己規制である。
大学の人文学系の講義って、そもそも何のためにあるのだろう? ぼくは国のため、公共のためだと考えている。先日の日本記号学会で、横浜国立大学ではシラバスにその講義がSDGsのどの項目に役立つのかを明記しなければならなくなったと、室井尚さんが言っていた。同志社大学のシラバスはまだそこまでは要求されないが、時間の問題かもしれない。それで室井さんの元同僚はシラバスに「本講義はSDGsの全ての項目に役立つ」と書いたが、別に何も言われなかったそうだ。
僕も十年くらい前、京大の全学共通科目でシラバスの詳細な記述が義務化され、その範例として有機化学の講義のシラバス例が示されて、こういうふうに書くようにという指示が来た。それで、そのシラバス例をコピペして、有機化学の用語の部分だけを美学芸術学関係の用語に置き換えるという、ふざけたことをして提出した。さすがに教務から何か言われるかと内心期待していたが、大学からは何も言われなかった。
拍子抜けしたので、その元の雛形と自分のシラバスを、このブログで公開した。教務課にもぼくのブログを読んでいる人がいるのを知ってたので、何か言われることを期待して。デリダ哲学を勉強しているゼミの院生が、これこそ脱構築ですね!と褒めてくれたりしたけど、大学からは何も言われない。なのに、それを読んだ別な大学の教員仲間から、吉岡さんこんなことして大丈夫ですか? と心配されたりした。
そういう点では、形式さえ整っていれば大学は講義の内容に関しては寛容(無関心?)である。それに対して「コロナ対策」と呼ばれている事柄に関してはまったく寛容ではない。今だにマスクして授業しなければならないので、それを考えるとつくづく嫌になる。マスクで講義すると30分くらいで帰りたくなる。しないと受講者の誰かが密告し教務から注意される。それで去年は現地での話はほどほどにして、帰ってからオンラインで内容を思い出しながら話をし、それをYouTubeで公開するという、ある種のハイブリッド講義にした。
今回もそうゆうやり方になるのかな。まず来週一回目をやって考えるしかないか。