スキャンダルは昔は新聞・雑誌やテレビを通じて拡散したが、今はそれがネットに落ちることによって、さらに高速に、さらに広範囲に拡散する。新聞・雑誌やテレビの報道だって断片的でちっとも信頼できなかったが、それがネットになるとさらに断片化され、信頼どころかそれを元に何かを考えることすら無意味なほど、情報が劣化してしまう。
とりわけ、色恋沙汰にまつわるスキャンダルはそうだ。個人的に知っている人たちが巻き込まれる色恋沙汰ですら、本当の事情は当事者たちにしか分からない。当事者自身だって分からないのかもしれない。ましてや知らない人たちの問題なんて分からない。裁判になっているなら、その判断を待つしかない。怪しげな伝聞からの憶測を元に、どちらかの味方をしてヤイヤイ騒いでもまったく意味がない。
意味がないのに私たちはつい騒いでしまう。それはスキャンダル自体には関係のないことで、私たち自身が抱えている不安や弱さが、スキャンダルを餌にして外に現れてしまうということだ。色恋沙汰や性的な事柄、とりわけそれが力のある年長の男性と若い女との間の関係だったりすると、私たちはわずかな情報の断片から有る事無い事をいろいろ妄想する。そんな妄想は道徳的に、かなりみっともない姿である。
けれどもその姿を認めることができないので、自分の不安を当事者への攻撃に転嫁する。さらには自分も被害者になりうるのではないか、いやすでにあの時のはそうだったのではないか、そもそも自分はこの世界でワリを食っているのではないかというように、次々に怒りが増幅される。するとスキャンダルの当事者だけではなく、同じような攻撃対象を探してゆくモードに入る。例えばネットで少しでも男性側に理解を示すような発言があると、今度はそれがターゲットになる。スキャンダルがルサンチマンに火を付けるのである。
メディアがなぜスキャンダルを流すのかという基本的理由は明白であって、それは売れるから、儲かるからである。でもメディア自体もそのことを認めず、こんな事件があることを知らしめて、弱者が損をしない世の中にするためだなどとキレイ事を言う。ようするに悪者を晒し者にして将来の不正を防止するというような理屈だろうが、晒し者や公開処刑が不正の防止に役立った証拠はない。それよりもスキャンダルの明白な効果とは、私たちを互いに仲違いさせることである。
スキャンダルとは本来扇情的な仕掛けであって、読む者が抱える不安に訴えかけ、怒りを励起することが目的である。それに乗せられてしまった人は、「正しい」ことを連呼し反動分子を探しては粛清する大行進に、進んで参加する。ようするにスキャンダルとは紅衛兵のリクルートなのである。自分の知る人たちがそのようにリクルートされてゆくのを見るのは、スキャンダルそれ自体を見るよりもはるかに辛い。だからますますネットを見ることが少なくなってしまうのである。