9月11日は、京都芸術センターで伏木啓『The Other Side - Sep.2021』を観た。実際にその時の放送を流すラジオ、水平に回転するバー、コップで運ばれる水、リアルタイムの或いは遅延した映像を再生するビデオプロジェクション。井垣理史の構成したインスタレーションの舞台上で、山田亮によるピアノ生演奏、高木理恵・てらにしあいの二人によるダンス、朗読、対話が展開された。音響は鈴木悦久が名古屋から遠隔で操作していたというを終演後の説明で知った。
この作品に触発され想起したことを以下に記してみる。
ラジオからピンクレディの『UFO』が聴こえてくる。私の世代にとっては懐しい、1970年代末のヒット曲である。でもその頃から、時間の線的な流れがしだいに混乱し始める。それはメディアによってもたらされた。まず、ホームビデオの爆発的な普及。かつて流行歌はその時代と結びつき、時代の雰囲気を知る手かがりだった。だがお父さんが撮ったビデオ映像を観て、同時代のピンクレディーを知らない小学生の子がその振り付けを真似する。そうして『UFO』は非線的な時空間の中に捕獲されてしまった。
インターネットの拡大に従って、流行歌だけではなく、すべての事件が時間の線的な時間の流れから逸脱してゆく。1995年の阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、2001年のツインタワーの崩落(奇しくも私が観た作品はそれから20年後の9.11に上演された)、2011年の東北大震災、そして2020年以降の新型コロナ感染症。イネットの存在によって、それらは過去でありながら現在でもあり、現在でありながらどこか現実感の希薄な、並列でフラットなトピックの連鎖のようなものとして感じられる。
メディアの発達とはある意味で、時間の流れを止めることだった。けれどもそれは、昔のSFドラマにあったように、何かの装置で世界の時間を一瞬完全停止させる、といったことではない。メディアによって時間は分断され、部分的に流れるようになる。分断されたそれぞれの時間はむしろ加速されている。けれどもそこにはあくまで部分的な流れしかない。そのことが、全体としての流れを不可能にする。つまり、歴史的思考を不可能にするのである。
歴史が消滅したことは「進歩」なのだろうか? あるいはそれはメディアの発達がもたらす必然的な結果なのだろうか? 私たちは本当に歴史なしで生きてゆけるのだろうか? そしてその方が「幸福」なのだろうか? あるいは、メディアによって時間が分断された非線的な時空間においても、新しい歴史的思考を求めることが重要なのではないのか。
わたしが思春期の頃「戦争を知らない子供達」(1970年)というフォークソングがラジオやテレビを通じて流行した。考えてみるとその頃から、時間は停止し始めたのかもしれない。「戦争」は人類が過去に犯した愚かな過ちであって、再び起こしてはならないと教えられた。世界では戦争は少しも無くなってはいないのに、戦争を歴史の中に位置づけることをしなかったので、たまたま日本に戦争がないことは既存の事実のように感じられた。
今の若者たちは、1990年代後半以後のグローバル化と新自由主義政策によってもたらされたデフレ状況の中で育った、いわば「(経済)成長を知らない子供達」である。彼らにとってもやはり、日常は時間の線的な流れから逸脱した既存の事実のように感じられ、それを歴史的に位置づけるという動機を奪われてきたのだと思う。1976年生まれの伏木啓さんは、私と今の若者たちとのちょうど中間に当たる世代である。
この作品は歴史やメディア状況について明確に言及するようなメッセージを持つものではないが、それでもわたしはそこに何かの示唆を感じずにはいられなかった。それは、もう一度時間を動かす、ということであった。止まっていた時間を、何らかの仕方でもう一度動かす。それによって、既存の事実と思えていたことが、作られた状況であったと分かる。作品を通じて歴史的思考を共有するのは大切でまた楽しいことだ。歴史がなければ未来もない。